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安心院9 妻垣神社 本来の玉依姫祭祀に戻った



安心院9 妻垣神社 

本来の玉依姫祭祀に戻った

あじむ つまがき




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別名、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)。


社家の方に話を伺う事が出来た。



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比咩大神を祀り、宇佐八宮の一つとして三女神を祀っていたが、
神殿の奥から古文書が出てきて、
本来の比咩大神とは玉依姫だったことが判明した。

よって、祭神は
一之殿 比咩大神…玉依姫命
二之殿 八幡大神…応神天皇
三之殿 神功皇后
となっている。




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神武天皇がこの地に来て母の玉依姫の御霊を共鑰山(妻垣山)の大石に祀り、その石を「足一騰宮」と名付けたという。



この石を馬蹄石とも言うそうである。




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これは上の方で崩落しそうだったので、現在地に遷したという。

馬蹄石は川、境内、元宮の三ヶ所にあり、
玉依姫の神霊が足一つずつで駆け上られたことから「足一騰」の名がついたという。

のちに、八幡信仰が入って来て、比咩大神を三女神とし、
町史などにも、そのように書いているが、
どうも話が合わず、近年出て来た古文書で真実が分かり、
今では玉依姫を祀るという。


当時、ここには宇佐津比売がいて、宇佐津彦は宇佐八幡宮の方だったという。
宇佐津比咩は水沼の一族だ。


やはり、馬蹄石は安曇の印なのだろうか。
高良山で大菩薩(磯良)が高木の神に印として馬蹄石を見せると、高木の神は簡単に納得して宿を貸した話が思い起こされる。








20180813


以上、安心院の旅でした。







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by lunabura | 2018-08-13 21:16 | バスハイク | Comments(0)

安心院 大年社



安心院 大年社





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いっせいにカメラを向けられた仁王様。

仁王様が守っているのは神社です。
神仏混淆の風習が残されていましたよ。









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この仁王様は、文政10年(1827)西原鉄右衛門の奉納で、
「家畜安全」を祈念したものだそうです。











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祭神は「大年神」などで、穀物神として祀られているようです。

大年神社は福岡ではなかなか見かけません。

出会ったのは縫殿神社(福津市・上巻5)に祀られている程度です。











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横に稲荷神が祀られていますが、巻物をくわえています。
暦の神です。
奉納者に阿部姓が見えます。

真鍋は暦を造るのは庄屋だと言っています。


ここは宇佐市安心院町佐田(さだ)という所で、
佐田というお殿様が来たことから付いた地名のようですが、

この祭祀がもっと古くから、それこそ神武天皇時代の時代からか、
あるいは江戸時代の単なる農業神なのか、
分からずじまいです。

近くには結構広い川が流れています。




次回行く宇土半島にも大年神社があって川があるので、
総合的に見てみたいと思います。

ここもモミジが綺麗な所でした。


20180805




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by lunabura | 2018-08-05 21:42 | バスハイク | Comments(0)

安心院 佐田神社



安心院 佐田神社










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ずっと心に浮かんでいた青いモミジはこの佐田神社のもの。



果たして、青いモミジはあるだろうか。









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そう思いながら石段を上った時、青い世界に息を呑んだ。

そう、ここだ。

この青いモミジの光がずっと呼んでいた。

「青い季節においで」
と。









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善神王 すなわち 武内宿禰を祀る宮。
スサノオも共に。

物部の関連か。
「脇巫女」でもずっと出て来た神々。









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人気の亀蛇。

熊本の文化が近いと思われる安心院。




佐田神社の縁起など、8回書いているので詳しくはコチラへ。


的外れも少々あるが、私ももう一度時間をかけて読み直そう。




ここもまた紅葉の時にはどんな表情を見せるのだろうか。



20180804


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by lunabura | 2018-08-04 22:09 | バスハイク | Comments(3)

一つできた



二回分のバスハイク、取りあえず一つ分を作り上げました。
(締め切りが近い(;'∀'))


心に浮かぶ方を先に作ることにしたのですが、
安心院の京石やこしき石、川籠石、
あるいは丘に鎮座する神社、
火口湖にできた田んぼなど、
もう一度訪れたいシーンが次々に出てきます。

そこで安心院の方を作りました。
天神から高速で約2時間かかりますが、
一つの地域だけに絞るので安心院内での移動時間は少なく、
8か所もリストアップすることができました。

帰り着く時間も6時ごろ。
まだ明るい時間に戻ってきます。
もうすでにワクワクです。

このご案内は来月にはできそうですよ。

その前に、6月に行く那珂川~春日~筑紫野の方の詳細をUPしますね。




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by lunabura | 2018-05-24 23:05 | バスハイク | Comments(0)

ひめちゃご41 「宇佐と六嶽は均し」



ひめちゃご41


「宇佐と六嶽は均し」
 


『八幡宇佐宮御託宣集』に「波豆米」の名が出て来た。

「波豆米」
読み方は分からない。
一応「はづめ」と呼んでいる。
宇佐神宮の禰宜だ。
女性。

これを見て思い出した。
彼女の名は「鞍手町誌」に出ていたはずだ !

そう思って資料を開くと、やはり載っていた。

波豆米は六嶽神社に参拝していたのだ。

「六岳神社降臨紀」という縁起書があるらしい。
そこに次のように書かれているという。
(読みやすく改変)

<養老2年(718)、宇佐の祢宜、辛島勝波豆米という人、ゆえ有りて
この御社に参り至ったが、室木の長田彦の裔孫・室木ノ国彦というものが、云々

この時、辛島氏が
「このお宮は吾が宇佐宮に均しければ、よろしく宇佐の第二宮と称し奉るべきである」と言ったとある。>

これは享保五年(1720)の記録だ。


ついに核心が見えて来た。

「養老二年」(718)という具体的な年が出て来た。
712年を手掛かりに奈良時代を見ると、
710年に平城京に遷都が行われ、
712年に太安万侶が『古事記』を編纂している。

718年、福岡と大分、すなわち鞍手と宇佐で一つの交流があった。

宇佐から禰宜がわざわざ鞍手に派遣され、
「この六嶽神社は吾が宇佐宮に均し」と伝えたのだ。

そう言って、相手に「宇佐の第二宮」の地位を押し付けたのだが、
逆に言えば、当時の六嶽神社の格式が高かったのを明かすものと言える。

この言葉の本質は「宇佐と六嶽」が同じ「比咩神」を祀っている点にある。



これで分かった。

宇佐神宮とは何か?

そう思うだけで霧がかかり、思考停止したのだが、
こちらも三女神信仰だったのだ。

三女神か、あるいは市杵島姫+二女神か。それはまだ不明瞭だが。

繰り返そう。
宇佐神宮の本質は六嶽神社と同じだ。


そして、今日、飯塚での古代史講座の前に雑談をしていたのだが、
宗像大社の本質は市杵島姫で、出雲も、という話を聞いた。

やはり市杵島姫か。

これらを思うとき、六嶽神社に掲げられた縁起絵に思いが至った。

それは六ケ岳の上空に一人の姫がいて、左右で見守るかのような二姫の姿だった。
市杵島姫と姉神二人だ。

そうだ、星読が絵を撮らせていただこうと言ってくれていたね。
一つ一つ、実行していこう。

再び六ケ岳のシリウスの出が見える季節が廻って来ていた。


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御許山



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六ケ岳

山容も似ているような。






※ コメントの返事、少しずつですが、お待ちくださいね。




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by lunabura | 2016-12-15 20:36 | 「ひめちゃご」 | Comments(4)

ひめちゃご40 宇佐神宮 菱形池



ひめちゃご40

宇佐神宮 菱形池
 








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宇佐神宮の本殿の前で三人とはぐれてしまった。


参拝を済ませて、遥拝所から御許山を撮影していたら、
互いを見失ってしまったのだ。









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御許山には神代に比売大神が降臨したという。








三人を追って下宮に向かうが、どうやら自分が先に移動しているようだった。

携帯があるから安心できる時代だ。

私は連絡して場所を確認すると、その足で菱形池に向かった。

もう一度行っておきたい。








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しかし、行けども行けども記憶の池は無かった。

他の神社の記憶と混じり合ったのか。

それとも、夢の中の記憶なのか。












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菱形池は広かった。









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石橋をいくつか渡った。









先ほど行った薦神社のご神体である三角池を考えながら。


 
三角池は三つの沢で形成されていた。
「鏡澤」「鉾澤」「玉澤」
渡来人が造成したと書かれているが、目的がよく分からない。
隣の地名は「加来」すなわち「星」の意味だ。

安心院との繋がりが思い起こされた。
鉄の匂いがする。


地形的に、この宇佐神宮も同じ匂いがするのだ。



『八幡宇佐宮御託宣集』によると、
欽明29年(569)この池の辺に鍛冶(かじ)の翁がいたという。

その翁は頭が八つあり、人々が見に来ると、その半分を殺した。

大神比義が行くと、人はおらず、金色の鷹がいた。
その鷹は金色の鳩となって袂(たもと)に止まった。

それから大神比義は三年間穀断ちをして祈ると、三歳の子供が現れた。

竹の葉の上で
「自分は辛国の城に八流の旗をともに天下りして日本の神となった。
釈迦菩薩の化身である。

十六代誉田天皇広幡八幡麻呂である。云々」
と語った。

三歳児、即ち応神天皇だ。
十六代であるのは神功皇后を十五代天皇として数えているから。

それがここの池の話だった。

文脈からは「鍛冶の翁」は応神天皇の化身となる。

ここには鍛冶の民が住んでいた。

豊かな水と湖沼の葦。鉄の材料に事は欠かない。



そして、神代から比売神がおわした。

参拝した人の多くは本殿の正面が八幡神でなく、比売神であることに驚く。

しかも、宗像三女神の称号ではない。

宗像三女神では不都合なのか。



『託宣集』では応神天皇の母は神功皇后で、父は住吉とする。
ここ宇佐では住吉族が活躍していた。

住吉族が宗像の三女神を崇敬するのでは都合悪かったのか。
あるいは、別の姫神だったのか。

薦神社では明らかに宗像三女神の名が書かれていたが。





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(水分神社)







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by lunabura | 2016-12-13 21:39 | 「ひめちゃご」 | Comments(4)

妻垣神社(足一騰宮)1 神武天皇が母・玉依姫を祀らせた

宇佐・安心院トレッキング(24) 

 妻垣神社(足一騰宮)1
つまがき・あしひとつあがり
 神武天皇が母君・玉依姫を祀らせたという


三女神社の次に妻垣神社に参拝しました。
「妻垣」はいろんな読み方があるようですが、神社の由緒書に「ともかき」と書いてありました。

コメントによると、神武天皇三女神社から当社に向かったという伝承があるそうですね。
(同じルートを辿ったんだ!!)

三女神社は周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡上して
安心院(あじむ)盆地に入った時、最初に舟を泊めるような地形でしたが、
そこからさらに支流を遡上していったのでしょう。

平坦な地形から、当時は湖沼で、葦原だったのではないかと思われました。

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今はそこに青々とした稲が風にそよいでいます。
目指す妻垣神社は正面の烏帽子型をした妻垣(ともかき)山の三合目あたりにありました。

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一の鳥居です。かつては石段を登っていったのですね。
今はその横に車道が通っています。
ヘアピンカーブをぐっと登ると神門前に出ますが、駐車場はそれをやり過ごして先の方にありました。

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車から降りて神門に向かいましたが、この参道から入ると、
当社もまた横から参拝するような配置になっていました。

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一旦神門に出て、入り直ししました。

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深い紅色の拝殿です。
当社は二礼二拍手一礼です。
御祭神は
比咩大神(玉依姫命)八幡大神 神功皇后です。

当社は宇佐神宮を中心とした八ヶ社の一つですが、
このように、比売大神に関しては「玉依姫命」と明記してあり、他社と一線を画しています。

その由緒について、書き写しましょう。(一部改変)
妻垣山(ともかき山)は太古、比咩大神の御降臨された霊地にして、宇佐神宮第二殿と言はれる。
八幡大神は称徳天皇、天平神護元年宇佐八幡、此の地に行幸、駐輦の地に同年十月八日、勅使石川豊成に八幡の神託有り、神殿を創建し奉祀。神功皇后は淳和天皇、天長年間に御勧請し奉祀。 
この山は比咩大神の降臨地で、宇佐神宮の第二殿ということです。
八幡大神と神功皇后は後に合祀されています。

当社が玉依姫を祀る事情について、さらに詳しく書いてありました。
足一騰宮
神武天皇、御東遷のみぎり、宇佐国造の祖、莵狭津彦、この処に宮殿を建立、奉賛餐せる旧跡で、当時、天皇、天種子命を以て、神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。

当社は比咩大神を祀って八幡社と号し、かつては普賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、当郡、中津、島原の領民百余村の氏子を有し、宇佐郷の宗社として崇敬され今日に至る。

神武天皇が東遷の時に、莵狭津彦が宮殿を建てて、もてなした旧跡で、
天皇が母君を天種子命に祀らせたということですね。
それゆえに、比咩神とは玉依姫だということです。
思いがけないところで、玉依姫に再会しました。

さて、足一騰(あしひとつあがり)の宮。
この不思議な名前の宮は『古事記』に出て来ますが、
いつかは行って見たいとかねがね思っていた宮でした。

神武天皇と宇佐津彦の伝承と共に、こうして現地が残っているとは感激です。
『古事記』の神々から抜粋してみましょう。

イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、
高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、
臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」
と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。

そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、
その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が
足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。
またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年刊滞在しました。
さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

イハレビコが後の神武天皇ですが、母が玉依姫ですね。
イハレビコを迎えて食事をもてなしたのがウサツヒコ、ウサツヒメですが、二人は兄妹だそうです。

当宮から岡田宮に移動しています。
岡田宮は一の宮神社という名で、熊鰐一族が現代に至るまで、
その磐境神籬(いわさかひもろぎ)を守っていましたね。

どちらもその神籬を守っているのですから、素晴らしいです。

神武天皇もまた、祖神を祀って神助を得る事が大移動の一つの目的でした。
ほかには、物部氏に迎えられて馬見山の祖神を祀りにも行きましたね。

そして、ここは?
縁起からは、神武天皇が玉依姫を祀らせたのですが、
もともと別の目的があって来訪したはずです。

当地は真鍋大覚の記述から、鉄を作っていた所と考えています。
神武天皇は武器の調達に来たのではないか。

それは「足一騰」という言葉そのものが教えていました。

(つづく)


妻垣神社



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by lunabura | 2013-09-04 22:14 | (タ行)神社 | Comments(0)

 三女神社 1 不思議な「二女神社」と 水沼の君

宇佐・安心院トレッキング(20) 

三女神社

 不思議な「二女神社」の扁額 と 水沼の君


今朝は夢の中で一枚の映像を見ていました。
高原の展望のよい所に二人の女性が向こうの山を見ています。
向こうの山は台形の形をした緑の美しい山でした。
二人はレギンスをはいたスレンダーな姿で伸び伸びと手を広げ、
とても気持ちよさそうでした。

二人の女性…。
夢の話をしながら、あれ?と思いました。
これは昨日記事にした二女神のシンボルでしょうか。
現代の女性だったのですが、何となくそう感じられました。
後ろ姿だったので、これから顔が見えたり、名乗りがあったりしたら、
逍遥の道程が一歩進んだということかも知れないな…

そんな事を考えたのですが、今回の三女神社の一の鳥居の扁額の
金色に縁取られた文字は何故か「二女神社」だったのです。

トマコさんからもコメントで指摘があったのですが、その通りなのです。
「三女」神社なのに「二女」と書かれた扁額。
これを掲げた人の強いメッセージを感じずにはいられません。


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ここは「家族旅行村 安心院」の隣にあります。
隣といっても、山ですから、10分ぐらいは歩いたかな。
舗装道路に面したいかにも古社の風情。

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これが一の鳥居の拡大です。「二女」神社と書かれています。謎めいた扁額です。


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石段を上ると、広い参道。
土の道で、とても心地よいのですが、るなの頭はまたもや何故?
どうして参道がこんなに広いのだろう。
土の道なのに草が生えていないのはよほど踏みしめたのか。
回りに人家のない所に、これほどの参道を作るのは何故?
るなの何故?なぜ?が始まります。

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次々と石段を上りながら、当然、扁額に意識が行きます。
これは「三女神社」。とてもがっしりとした鳥居です。
他の鳥居も全部「三女神社」でした。

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ようやく神門前に着きました。
ここもまた正面でなく、脇から参拝するようになっていました。

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神門の正面にまわりました。

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思いがけず大きな本殿でした。

祭神は 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命 他十柱です。
宇佐神宮の比売神、宗像三女神と同じです。

一の鳥居の所にあった由緒を写します。
由来 鎮座地 宇佐郡安心院町大字下毛字三柱

そもそも三柱山三女神は日本書紀神代巻に曰く
「即ち日神(天照大神)の生みませる三女神を以て、葦原の中国の宇佐島に降(あまくだ)り居さしむ云々…」とあり、即ち宇佐島とはこの地宇佐郡安心院邑、当三柱山一帯とされ、安心院盆地を一望する聖地で、宇佐都比古、宇佐都比売は三女神を祖神とするが故に、全国唯一の三女神の御名前をもつ社であるにして、水沼の君等がこれを祀る、爾来一貫してこの地に鎮座して今日に至ると伝えられる。(略)


ここは三柱山といって三女神の降臨地ということですね。
宇佐都比古、宇佐都比売三女神を祖神としています。
そして、驚きの名が…。
「水沼の君が祀る」とあるのです。
まさか、こんな所まで水沼の君の祭祀圏があるとは。

これって、まさか、るなの仮説「水沼―三女神―宗像のライン」をつなぐ証し?

(つづく)


地図 三女神社






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by lunabura | 2013-08-30 21:28 | (サ行)神社 | Comments(4)

宇佐神宮6・呉橋と大善寺 暗号をどう解けというんじゃい

宇佐・安心院トレッキング(16)

宇佐神宮6 

 呉橋と大善寺 
暗号をどう解けというんじゃい
  

上宮参拝の後、下宮を参拝して、今回のテーマの一つ、呉橋へ行きました。

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よ~く見て下さい。これは社ではありません。橋です。
しかも開かずの橋。十年に一度、勅使を迎える時にだけ開くそうです。

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ちょいと横から。川面が見えます。この呉橋は県の重要文化財です。
宇佐神宮HPには
「鎌倉時代より以前からある西参道の屋根が着いた神橋です。
昔、呉の国の人が掛けたともいわれ、この名があります」
と書かれています。

出ました!「呉の国」の人が架けた?
呉の国といえば、二つあります。紀元前と紀元後。どっちだろう。

ちょっと、ウィキペディアで確認しておきましょう。

呉(春秋)
(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉,勾吳。

呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。

周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。
後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。


呉(三国)
(ご、拼音:Wú、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。

222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。


紀元後の方は魏蜀の三国で、神功皇后や卑弥呼の時代です。
神功皇后の時代なら、竹内宿禰たちの土木工事の話などが伝わっている時代なので、
橋を作る事もできたでしょう。
これほどの装飾はなくても、当時の船を造る技術で作れたと思われます。

「呉の国」という表現は、まだ日本人に同化する時代の話なんでしょうね。

さて、呉の民といえば安曇族です。
安曇族が三国時代の呉人とすると時代が合いません。
紀元前の呉なのでしょう。そうすると太伯の時代となります。

紀元前の呉と紀元後の呉って同じなのでしょうか?
にわか勉強なので、わけが分かんない~。

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今回のポイントは「呉橋は勅使道に架かっていて、創建は倭の時代」ということです。
(のちに倭国と日本国の並立時代がやってくる)

呉橋(くれはし)には屋根がついていますね。勅使は右の鳥居から橋を渡るのでしょう。
私が建っている所は一般人の通れる橋で、神橋といいます。
川は寄藻川といいます。

で?何なのだ?これが何を意味する?

るなの頭はこの辺りで思考停止するのですが、
この呉橋の特殊性に気づいてツアーを組んだ古川清久氏はメンバーにどうしても見せたいものがありました。

それは呉橋のすぐ近くの大善寺です。
大善寺?
久留米市の人は「え?」て思うでしょ。
大善寺玉垂宮と同じ字のお寺が宇佐神宮の隣にあったのです。

私たちは迂回して川の上流に出ました。

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ここは「大善寺橋」の上です。
川の向こうに長い屋根の建造物が見えますが、それが先程の「呉橋」です。
この橋は白龍山大善寺の前に架かっています。

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これが白龍山大善寺の正面です。


古川氏は久留米市の「大善寺玉垂宮」の前に架かる橋「傘橋」も、
「傘」という字から、貴人しか通れない橋を意味していると言います。

宇佐と久留米の相似はいったい何を暗示している?

薦神社の呉橋と勅使道。
宇佐神宮の呉橋と勅使道と大善寺。
大善寺玉垂宮と傘橋。

この三つの橋は貴人しか通れない特別な橋。

U~NN.うまく書けない。
人の発見を、何で るなが苦労して解説しているんだい。 (-_-;)


勅使道というのは天皇の使いが通る道。
奈良・平安時代なら天皇の所在地は近畿なので出発点は近畿だけど、
呉の国の人が生きていた時代は倭の時代だから、勅使の出発点は近畿ではない。

そうすると、
出発点は同じキーワードを持つ大善寺玉垂宮だということでしょうか?
あるいは大善寺玉垂宮は通過点?
つまり、天皇あるいは王は筑紫の方にいた。

そんな理解でよろしいのでしょうか。

これについてしばらく考えていたのですが、まさか。
るなの仮説とつながってる?

るなの仮説は「三女神を祀っていた水沼の君が宗像の君となった」というもの。
つまり、水沼の君の三女神と宗像の三女神は同じ神。

大善寺玉垂宮は水沼の君の都にあります。
水沼の君の三女神と宇佐神宮の三女神もつながってる?

これ、やばくないっすか?


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地図 宇佐神宮の呉橋 大善寺


地図 久留米市大善寺玉垂宮と 傘橋




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by lunabura | 2013-08-21 22:24 | 神社(ウ) | Comments(8)

宇佐神宮5・隋神 高良神と阿蘇神

宇佐・安心院トレッキング(15) 

宇佐神宮5

  隋神 高良神と阿蘇神


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上宮の正面です。この門は一般の人は通れません。
その華やかな建築は日本の美を堪能させてくれます。

誰かが質問しました。
「ところで、高良の神は当宮には祀られていますか」
「はい、こちらに祀られています」
そう言って案内されたのが右手の隋神像でした。

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威厳のある美しい神像です。
御顔を見ると、阿蘇の神に比べてずっと長老です。


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こちらが阿蘇の神。正しい名称は分かりません。

しかし、こうして守護神となられたということは、二神は宇佐の下になったことを意味しています。
どんな事情があったのでしょうか。

宝物殿で伺ったことばを思い出しました。
「高良山は第二の宗廟で、守る人がいなくなったので、こちらでお守りしました」
必死でメモをしただけなので、その内容は分かりません。
初耳で、時代もいつの事が分からず、驚くばかりでした。
何が起こったのでしょうか。

阿蘇の神と高良の神。
九州王朝を連想させます。
鷹居神社の「松と鷹のモチーフ」が再び出て来ます。
こうなると、金の鷹が鷹居神社に飛んで行ったという話にも深い謎かけがありそうですね。


黒男神社
高良の隋神像の御顔を見た時、長老だったので、竹内宿禰のことかと思ったのですが、
実は、竹内宿禰は鳥居の外に祀られています。

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黒男神社 御祭神 武内宿弥
武内宿弥は、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と、五代の天皇に二百四十余年もの間大臣として仕えたと伝えられます。数多くの功労があり、忠誠を尽くされたことをもってお祀りされています。
八幡大神にご奉仕された神であり、古くから大鳥居の外に鎮座になって大神をお護りされています。長寿、忠誠、奉仕などの高いご神徳を授けられます。
   (宇佐神宮Hpより)

大鳥居の外で大神を護っているという位置づけです。
この黒男神社の竹内宿禰と上宮の隋神は同神なのでしょうか。

さらに、その裏には仲哀天皇の祠があったそうですが、最近、神功皇后のおそばに祀られたそうです。
神功皇后の神殿の横には住吉神社があります。
これらの配置からは宇佐神宮の創建時の思想が伺えそうです。


ウィキペディアより
宗廟(そうびょう)とは、中国において、氏族が先祖に対する祭祀を行う廟のこと。中国の歴代王朝においては、廟号が宗廟での祭祀の際に使われる。台湾の台中にある林氏宗廟や、世界遺産に登録されている朝鮮王朝の李氏宗廟が有名。
または日本に適用して、伊勢神宮・石清水八幡宮のこと(二所宗廟)。



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by lunabura | 2013-08-19 22:19 | 神社(ウ) | Comments(24)
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