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ウーナ44 七つの珠9 筑前大島へ



ウーナ44

七つの珠9 

筑前大島へ
 


2017年11月11日に糸島で七つの珠を預かった。
それは年を越した4月までに七つの神社に奉納すればよかった。

ことの起こりを尋ねると、崋山が何故か大島に行きたくなったので、
菊如を誘って観光に出掛けたことから始まったという。

フェリー乗船まで時間があるので岡垣町の大国主神社に参拝することにした。
ところが、そこにいたのは豊玉姫の分御霊で、崋山に懸かってしまった。

豊玉姫は「志賀島に帰りたい」という。
しかし、その日は手立てがないので、豊玉姫が懸かったまま二人は
大島に渡ったという。

大島の巡回バスに乗っているとき、菊如のビジョンに神社の映像が浮かんだ。
港に戻ってその神社を探すうちに、辿り着いたのが厳島神社だった。

大島といえば宗像大社の仲津宮が有名で、厳島神社の存在は全く知られていない。
地図を見ると、港から東の方の岬の上にある。

二人のアンテナは厳島神社の近くの氏子の家を指した。
二人は導かれるまま民家に上がり、祭壇に祝詞を上げた。

すると、床の間に掛軸が懸かっているのを知った。
その掛軸に二つの亀が描かれていた。
その亀には筆のようなしっぽがあった。

この時、崋山に懸かっていた豊玉姫が現れて、
その亀に乗って志賀島に帰ると言い出したという。
そして、豊玉姫は志賀島に戻っていった。


二人が豊玉姫に関わりだしたのはこの時からだった。
それから糸島に行って七つの珠を預かった。11月11日のことだ。

それから十日後。
菊如と崋山はお世話になったお礼もかねて、
厳島神社の祭に参加することにしていた。
それが11月21日だった。

私はまだ大島に渡ったことが無かった。
訪ねる予定の先方が入院されたり、
大島の回り方が分からなかったり、とご縁が出来なかった。

そこで、今回はチャンスとばかりに二人に同行させてもらうことにした。

当日、朝9時25分のフェリーに乗って初めての大島行となった。

少し早目に集合して、すぐ近くの宗像大社の頓宮に参拝した。
みあれ祭の時に沖ノ島と大島の姉姫たちと市杵島姫が三柱の神輿が揃って神事がある岬だ。


20180530


その時の記事の再掲をしよう。





辺津宮―大島―沖ノ島

海底に沈んだ陸と遺跡

いまだに信じられない。

かつて大島は陸続きだったという。


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神湊の頓宮から大島を撮ったのだが、この間は陸地だったというのだ。

しかも、この海が出来たのは475年。倉良の瀬戸という。

今から約1500年前のことだ。

そんな話を伝えるのは、もちろん真鍋大覚ぐらいしかいない。






しかし、海底に沈んだのはこちらだけではない。

大島の向こう、沖ノ島の手前にも海底に沈んだものがある。




30mほどの石柱が四本。一本には螺旋階段がついている。

これは真鍋の口碑の裏付けになろう。



もしかしたら、両方とも同じ時期に沈んだのだろうか。


鼻栗瀬もそのとき、一部が崩壊したのか。



合わせ鏡の舞台だ。





話は逸れるが、大島には洞窟が沢山あるそうだ。

かつてそこで金を採掘していたという。

陸地の方も孔大寺山は金を産出していた。

金の鉱脈が繋がっているのか。





<2017年12月4日>


リンクをいくつかしているがリンク先が出ないので、上の記事のリンクを次に。

https://lunabura.exblog.jp/28469444/








歴史カフェ小城
6月9日(土)第3回 3時~5時
1部:佐賀の女神たち よど・とよ・とよたま姫
2部:神功皇后の伝承
申し込みはコチラへ
①氏名(よみがな)②簡単な住所(字まで)③609希望
詳細はコチラ
会場:小城鍋島家Ten

歴史と自然をまもる会
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バスハイクの旧記事はコチラ
申し込みは 092-408-7140
6月14日(木) 住吉の里
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by lunabura | 2018-05-30 20:51 | 「ウーナ」 | Comments(1)

ウーナ43 天山11 晴気天山神社2 1002年に現在地へ



ウーナ43

 天山11 

晴気天山神社2 1002年に現在地へ
 


晴気天山神社の縁起を「小城郡誌」から紐解こう。

「参議藤原安弘文武天皇の口宣をこうむり、大宝2年(702)10月15日天山池の中に島を築き、蓬莱(ほうらい)島(仙人が住む島)と名付け、上に祠を建立して天山神の上宮と定め、下宮を靈貴山(一名烏帽子嶽という)に建立す。

長保4年(1002)、康家烏帽子嶽の下宮を当所に遷座し、諸祭祀を興した。

建立当時には文武天皇の口宣をいただいて小城郡神祇官領を下され、次に永代神領として郡内居住の四方三百町を寄進された。」

のちに参議という高い身分になった藤原安弘とは房前(ふささき)のことだ。
文武天皇は持統天皇の孫にあたる。

安弘は702年の10月15日に天山池に島を築き、祠を建立して上宮とした。
持統天皇はこの時、存命していたが、二か月後の12月22日に崩御している。

だから、上宮と下宮が出来たことの報告を受けていた可能性がある。


縁起の続きには、ちょうど300年後、1002年に烏帽子嶽の下宮を現在地に遷座したとある

すると、「烏帽子嶽(561.27m)の下宮」とは現在「中宮」と呼ぶところで、川内分校付近にあり、巨石を神体としている所となる。(広瀬天山神社の縁起による)


以上から、明星山と結ばれた二つの下宮(岩蔵と広瀬)のライン上に晴気が乗って来て、三つの下宮が揃うのは1002年のこととなる。


【長崎県肥前国小城郡村誌】には
「郷社、村の北内浦にあり。今の本社は天山社の下宮で、畑田ケ里天山絶頂9合目にあり、高山にあって、修繕保護が困難なため、中古に下宮の地をもって云々。」

とある。






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現地は急な斜面で、はるか遠く佐賀平野が見渡せる地だ。
しかし、ここからは他の下宮も上宮も見えない。
特殊な測量をして、意図的にここに遷座したということだろう。


【肥前古蹟集】によれば、
「大宝2年(702)霜月15日、弁財天が天山岳に飛来した。本山烏帽子ケ岳に影向された。ここを宮床と名付ける。(略)」


とあり、702年11月15日に新たに弁財天の飛来をみている。
その場所が天山で、影向したのは烏帽子嶽ということだ。
詳しい状況は書かれていない。




さて、ここで天山の神の変遷について整理しておこう。
701年の少し前に天御中主命が祀られたが、
光が飛来する奇瑞があり、安芸の宮島から光を追って来た人たちの話から、
市杵島姫および二女神、合わせて三女神が加わる。

そして、弁財天の飛来を見て、弁財天信仰となる。
市杵島姫と弁財天は同一で、神式から仏式となったともいえる。

これらがわずか数年の間に起きたことだ。

そうすると、持統天皇が与えた「晴気の里」とは、中宮、すなわち川内分校を含めた地域がメインと考えられる。



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チェリーが地図を作ってくれた。
中宮から東南の方向に、他と比べて傾斜が緩い小平野がある。
天山山系の稜線には赤いラインで示されたような、崩落と思われる地形がある。

氷河期が終わると、雪解け水は山を削りながら山津波となって下っていった。

土砂崩れに流された流木が途中に引っ掛かって堆積して、湖沼の地下で天然の亜炭になっていく。
土砂には粉砕された鉱物が含まれていた。


賀茂氏はわざわざそのような地を選んで入植していくという。

すぐ南に「八丁ダム」など、「八丁」(はっちょう)の地名が見られる。
「八丁さま」こそ、賀茂氏のことである。

おそらくは、ここで金属加工をする賀茂氏がいて、
その生産品の所有権を持統天皇は褒美として与えたのだと思う。


それと似たような例が東の方、綾部神社にある。
「忍海漢人をこの地にとどめ、兵器を造らしめたが、そのまま土着し」たという
綾部一族にとって、そこが工人として魅力的な土地だったのだ。

背振~天山の山塊は鉱物資源と薬草を生み出す黄金の地だった。
黄金と弁財天の名もまた融合していく。




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さて、もう一つの下宮が残っている。
広瀬があるが、参拝したあとに記録しようと思う。





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by lunabura | 2018-05-28 23:12 | 「ウーナ」 | Comments(3)

ウーナ41 天山9 岩蔵天山神社2 七面天王



ウーナ41

天山9 岩蔵天山神社2 

七面天王
 

前回、岩蔵天山神社から見える山を載せると、すぐにチェリーが作図してくれた。






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以下、メールより。
「岩蔵天山神社からのカシミール画像を作成してみました。

(かなり広角にしてありますので、実際と少し違った感じになるかもしれません)
「天山」は見えるようです。直線距離で5.5kmくらいです。


「あめ山」と「上宮」は419mの山にギリギリ隠れてしまうようです。

きれいな三角形に見えるのは、ピークではなく、愛宕山から延びる稜線の端になります。
ここからなだらかに愛宕山まで登る地形になっていますので、愛宕山の頂上は見えません。
この三角形の左下を、明星山からのラインが通ります。

参道から社殿の方向は、真西より南へ2°くらい傾いた方向のようです。
少し角度がずれますが、lunaさんが感じられたように、この三角形に見える山か、ラインの通過点を意識して社殿が建てられたのでは?と私も思います。

まあ、その、たまたまラインの通過点を白い印にしてあるのですが、松の梢にとどまった「光」の場所をここに仮定すると、ちょうど「里に照り渡った」という感じになるんじゃないかと、ふと思いました。」
以上、メールから。

見えている三角形の山は愛宕山の稜線の端だそうだ。
ちょうど三角屋根の家を横から見たら三角形に見えるようなものだ。

此処から見える姿の美しさからは、このように見える場所だからこそ、
ここを聖地として選んだようにもみえる。



さて、光が松の梢に留まった場所についてはまだ不明だが、「あめやま」の頂点近くではないかと思っていた。

チェリーはラインが通る白い点の場所だったら、里に照り渡ったという描写に合致するのでは、という意見だ。
なるほど。
異なる意見を交わすことでより詳細な世界が描きだせる。








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これは境内の右手の道路から天山方面を撮ったものだ。

正面の少し尖ったピークより左奥に見えるフラットな山頂が「あめやま」のようだ。








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これは境内の池のようす。小島がある。
弁財天を祀る池のパターンと思われるが、その水の透明さは格別だ。







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そして、これは境内にあった祠。
石で作った神像が鎮座していた。

左の女神は「七面天王」と書かれている。
これは七面天女のことだろうか。そうすると弁財天となる。

「ひめちゃご」で七色が七回、七面山に登ったことを思い出した。





異世界小説 
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by lunabura | 2018-05-26 22:05 | 「ウーナ」 | Comments(1)

一つできた



二回分のバスハイク、取りあえず一つ分を作り上げました。
(締め切りが近い(;'∀'))


心に浮かぶ方を先に作ることにしたのですが、
安心院の京石やこしき石、川籠石、
あるいは丘に鎮座する神社、
火口湖にできた田んぼなど、
もう一度訪れたいシーンが次々に出てきます。

そこで安心院の方を作りました。
天神から高速で約2時間かかりますが、
一つの地域だけに絞るので安心院内での移動時間は少なく、
8か所もリストアップすることができました。

帰り着く時間も6時ごろ。
まだ明るい時間に戻ってきます。
もうすでにワクワクです。

このご案内は来月にはできそうですよ。

その前に、6月に行く那珂川~春日~筑紫野の方の詳細をUPしますね。




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by lunabura | 2018-05-24 23:05 | バスハイク | Comments(0)

ウーナ40 天山8 岩蔵天山神社 七歳の童女に神が懸かった



ウーナ40

天山8 岩蔵天山神社 

七歳の童女に神が懸かった
 

さて、今日は岩蔵の天山神社の紹介をしよう。


天山の麓にある三つの下宮社のうち、一番東に鎮座している宮だ。

九州横断自動車道で長崎に向かい、小城パーキングに新たに設置されたスマートICから下りていくと、すぐに三叉路に当たる。右折して祇園川沿いに遡っていくと、まもなく天山酒造が右手に見える。

その正面が岩蔵天山神社だ。ここにも「天山橋」があった。









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社前のようす。






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参道の途中に池があって橋が架かっていた。
橋は一枚岩でとても珍しい。古来のものが残されているのだろうか。






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肥前鳥居。









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祭神は『小城郡誌』によると、
多紀津毘売命、市杵島毘売命、多紀理毘売命の三柱となっている。
宗像三女神だ。

社殿は黒を基調にした色で、女神の宮にしては珍しい色に思えた。







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拝殿には鍋島家の杏葉紋(ぎょうようもん)が掲げられていた。











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神殿は赤と水の色。








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社殿の向こうに三角形の山が見える。
愛宕山らしい。真後ろではなく、微妙にずれているが、この山を見ていると思われた。


社殿は東に向いているので、ここで手を合わせると厳密ではないが、晴気(はるけ)や厳木(きゅうらぎ)の天山神社方面にも手を合わせることになる。



『小城郡誌』を口語訳しよう。

<当社は天山頂上にある上宮に対し、晴田村天山社、東松浦郡厳木村大字広瀬天山社と共にその下宮である。

当社は文武天皇の大宝2年(702)口宣によって建立したもので、伝記書によれば、42代文武天皇の大宝2年(702)4月1日、小城郡高隅の里(のち岩蔵と改めた)の北山に不思議な奇瑞が現れ、松の梢(こずえ)に清らかな光が輝いてとどまった。

 その松のそばに木こりの家があった。光は里に照り渡った。人々は奇異の目でその光を見守った。

その日の夕方、村の七歳の童女が急に物狂いして話し始めた。

「われは東海より飛んできた神である。この地に長らく留まって国家を守護し、もろもろの災難を祓おう」と。

 その翌朝、松のそばに池が出来て清水が湧き出した。この里の九郎康弘という者が、清水の湧出を見て里人を集め、その松のそばに社を建てて神霊を祀った。


 この時からこの村を松本村と呼び、この松を「影向(ようごう)の松」と呼ぶようになった。

 この童女の子孫代々は命婦(みょうぶ)となって神事、祭祀を預かり神座を勤めた。そして九郎康弘が亡くなると里人はその末社に祀り、九郎大明神と名付けて本社の側に安置した。>


当社は、文武天皇の大宝2年(702)に口宣によって建立された。
「口宣」とは天皇からの勅命を口頭で伝えたものを文書化したものだ。
だから、天皇の命令で造られたことになる。
文武天皇はこの時、16歳。そばには祖母の持統太上天皇が控えていた。

晴気(はるけ)の里は持統天皇が授けたものだから、文武の口宣は実質、持統天皇の命によるものと考えてよいだろう。

概要は、北山に光が飛んで来て、松の梢で光輝いた。
その村の七歳の童女に神懸かりがあり、国家鎮護を約束すると、翌日松のそばに泉が湧き出した。

そこで九郎康弘がやってきて村人を集めて社を造ったということだ。

この九郎康弘のことは広瀬天山神社の方では「安弘」と記され、藤原房前の生前の名ということが明らかにされている。
だから、小城と朝廷の連絡が直結していた理由がここにあることが分かった。

その3年後、この「光」が安芸宮島から飛来したもので、「北山」が「天山」となったことが『小城郡誌』の続きに【参考】として書かれている。



<【参考】
それから3年後、慶雲2年(705)に芸州厳島(安芸の宮島)の人が当地にやってきて尋ねた。
「近頃、宮島から清らかな光が輝き起こって、西の海の方に飛び去りました。それからずいぶん経ちますが、どこに飛んで行ったのか分かりません。不思議に思ってその光が留まった所を尋ねると、当地に留まったのが分かりました。何か不思議なことはありませんでしたか」と。

 里人が、奇瑞が起こって託宣が降りた話をすると、社人は大変驚き、宮島には帰らず、永らくここにとどまって社務をつかさどっているというのである。現在、馬場に宮島姓が多いのはこのためである。

 最初に松本に神霊が影向した時には、はるか南の松林からも清らかな光が見えたので、小さな石祠を建てて、下の宮というようになった。
それから後、祭の時には神輿(みこし)をそこまで降すといい、今は南松と称し、小祠がある。 

 同年の冬10月、国司が右の奇瑞を帝都に上奏して天山大神宮と勅許をえて、北山は天山岳と名付けた。>


文脈からは、下宮が建った所は神霊の影向が見えた「はるか南の松林」とあることから、この岩蔵がその地点という解釈でいいのだろうか。

広瀬天山神社の縁起の方には、
701年に白雲が天山から本山、広瀬、岩蔵の上に降りるのを見て、天御中主命を勧請して三つの下宮としたように書かれている。

光の飛来が見えたのは翌702年のことで、705年に宮島から来た人の話で光が市杵島姫と判明する。

安芸の宮島すなわち厳島神社(広島)は593年佐伯鞍職が市杵島姫を祀ったことから始まっている。当時、市杵島姫単独か、三女神合祀かは不明だ。

縁起からは下宮を一直線にするための積極的な理由は見当たらなかった。







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境内の右手から後ろの天山山系を撮ってみた。
天山そのものが見えているかは分からないが、光がここから見えたということになるのだろう。





20180516


小城市岩蔵2348









異世界小説 
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by lunabura | 2018-05-16 21:19 | 「ウーナ」 | Comments(0)

第2回小城 歴史カフェでした 



今日は小城鍋島家Tenでの歴史カフェ。
ご参加の皆様、ありがとうございました。

今日は藤原房前(ふささき)と持統天皇の話。
まさに、ここに房前は来た、という
当地だからこその臨場感があります。
やっぱりすごい所だったんだなあ。

お茶タイムの時、
天山に手を合わせているうちに不思議なことがあったという話を聞きました。

遠い飛鳥時代から現代に至るまで、
見えない力が働いていることを改めて知りました。

今日はスタッフの方に案内いただいて、
三つの天山神社下宮のうち、岩蔵と晴気(はるけ)に参拝しました。






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これは晴気に向かう道から見える天山の雄姿です。
左端のピークが天山です。

川沿いの道で、かつて天山に向かった道はここだったことを思い出しました。

画像など、少しずつUPしますが、七つの珠も積み残しで、
どちらを先にするか、悩みどころです。

次回は佐賀の女神たち、ヨド姫、トヨ姫、トヨタマ姫の話をします。
6月9日(土)です。
また、詳細をお知らせします。

20180312




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by lunabura | 2018-05-12 21:23 | 歴史カフェ | Comments(0)

【「ご来福」しよう】に私の文を掲載していただきました(^^)/



【「ご来福」しよう】に

私の文を掲載していただきました(^^)/



福岡県の古代史発信の拠点・HP【「ご来福」しよう】に
「古代史コラム」がありますが、
そこに私の書いた文章を掲載していただきました。

今回は3本です!

当ブログで何度も出てくる、るなのお勧めの、心に残る神社ばかりです。




コラム 6

相島 新宮町 猫にも会いたいけど、豊玉姫の出会いの井戸に行かなくちゃ」

相島の若宮神社には豊玉姫が山幸彦と出会った「わたつみのいろこの宮」の井戸があります!!

相島は猫で有名ですが、恋活と安産には是非とも見逃せない神社です。
せっかく島に行ったら、訪ねてみましょうね^^




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コラム7
楯崎神社 福津市 巨大な磐座がそそり立つ岸壁の宮で癒されよう」

ここも何度も紹介している所。岸壁の上の参道を通って行くだけで癒されます。






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見えている海は「恋の浦」 。

大国主命と二女神が一緒に敵を撃退したという歴史があります。
西行や最澄ファンも歩いてみましょう。

磐座と海。心のよりどころとなるお宮です。










コラム8 「二つの釜屋神社(八女市) インスタ映えの竜宮は瀬織津姫のおわす宮」







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「ひめちゃご」で紹介した竜宮の絶景。これが内陸の矢部川にあります。
瀬織津姫ファンは見逃せませんね。

ここまで来たら八女津媛神社もすぐそこですよ(^^♪




コラム1 「女神に逢いたい 八女津媛神社(やめつひめ)」
で紹介してもらっています。
神秘的な聖地を体感したい方にお勧めです。





この四つは豊玉姫、二女神、瀬織津姫、八女津媛と、
筑紫(ちくし)におわす女神たちの聖地です。

画像は猫以外は全部、私が撮ったものです。
大判の迫力にびっくりしました。



以下からどうぞ







<20180321>





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by lunabura | 2018-03-20 20:24 | ご来福しよう | Comments(0)

ウーナ19 天山3 晴気天山神社



ウーナ19

天山3  

晴気天山神社
 


天山神社三社の中央に位置する晴気(小城市晴気(はるけ)3563)について、
『小城郡誌』を読んでみよう。

郷社 天山社
春田村大字晴気字本山にある。
祭神は多紀理毘売命、狭依理比売命、多岐津比売命である。

参議藤原安広は文武天皇の口宣をこうむり、大宝2年(702)10月15日天山池の中に島を築き、蓬莱島と名付け、上に祠を建立して天山神の上宮と定め、下宮を靈貴山(一名烏帽子嶽という)に建立す。>

とある。
市杵島姫の名が狭依理比売命となっているのが特色だ。
烏帽子嶽の天山池に蓬莱島を築いて祠を建立して上宮としている。
これは何処だろうか。
伊万里に名が見えているようだが、よく分からない。

それから300年後のことが書かれている。続きを見よう。
<長保4年(1002)、康家は烏帽子嶽の下宮を当所に遷座し、諸祭祀を興した。
建立当時には文武天皇の口宣をいただいて小城郡神祇官領を下され、次に永代神領として郡内居住の四方三百町を寄進された。>

とある。ちょうど300年後に、烏帽子嶽の下宮が現在地に遷座している。
これが晴気の天山神社の起こりとなる。

郡誌はさらに別伝を記録している。
肥前古蹟集
大宝2年(702)霜月15日、弁財天が天山岳に飛来した。本山烏帽子ケ岳に影向された。ここを宮床と名付ける。(略)>

長崎県肥前国小城郡村誌
郷社、村の北内浦にあり。今の本社は天山社の下宮で、畑田ケ里天山絶頂9合目にあり、高山にあって、修繕保護が困難なため、中古に下宮の地をもって云々>

とある。地元の方でないと詳しい地理は分からないが、晴気の天山神社はもともと山にあったものが300年をきっかけに現在地に移ったということだ。

その時、宮の鎮座地を決めるのに、チェリーの指摘するように、明星山と岩蔵天山神社の延長上を測量して決めた可能性は十分あることになる。

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日付を前述の岩蔵天山神社と突き合わせてみよう。

702年 4月1日、岩蔵の北山の松に光が留まり、翌日水が湧き出し、東海から来た神という託宣があった。(岩蔵)
    10月15日 藤原安広が天山池に蓬莱島を築いて天山神の上宮とした。(晴気)
    11月15日 弁財天が天山に飛来。烏帽子嶽に影向した。(晴気)
705年 広島の宮島から人が尋ねてきて光は宮島からと分かる。(岩蔵)
    10月天山大神宮とし、北山は天山岳と名付けた。(晴気)
1002年 烏帽子嶽の下宮を現在地に遷す。(晴気)

これに加えて、天本孝志(九州の山と伝説)によれば、小城郡禅定山に弁財天が来現し、「大唐」の弁財天と名乗ったとある。
702年に「トウ」から来た神の託宣があり、「東海」か「唐」か、解釈が分かれたようである。ただ、市杵島姫(弁財天)であることは一致していることになる。


また、天本は「晴気城城主千葉氏は所領(300町)が、古くから筑前宗像神社の社領だったことから、足利側についた宗像大宮司氏俊に味方したと言われている」と記していて、宗像神社の社領が当地にあった話を残している。これは意外な話だ。やはり、宗像とも関わりがあることになる。



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原因を調べて時間をかけてやり直さなければならないので、
落ち着いてからトライしたいと思います。
それまでは、バナーを消します。
再開したら、またよろしくお願いしますね。





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by lunabura | 2018-03-02 21:35 | 「ウーナ」 | Comments(4)

ウーナ17天山2 安芸の宮島からの影向だった 岩蔵の天山神社 705年


ウーナ17

天山2 

安芸の宮島からの影向だった 
岩蔵の天山神社 705年
 


 不思議な光が松にとどまり、水が湧き出し、七歳の童女が東海から飛んできた神霊の託宣(たくせん)伝えたのが702年のことだった。
 『小城郡誌』の続きを読もう。
 
<それから三年後、慶雲二年(705)に芸州厳島(安芸の宮島)の人が当地にやってきて尋ねた。

「近頃、宮島から清らかな光が輝き起こって、西の海の方に飛び去りました。それからずいぶん経ちますが、どこに飛んで行ったのか分かりません。

不思議に思ってその光が留まった所を尋ねると、当地に留まったのが分かりました。何か不思議なことはありませんでしたか」と。

 里人が、奇瑞が起こって託宣が降りた話をすると、社人は大変驚き、宮島には帰らず、永らくここにとどまって社務をつかさどっているというのである。

現在、馬場に宮島姓が多いのはこのためである。

 最初に松本に神霊が影向した時には、はるか南の松林からも清らかな光が見えたので、小さな石祠を建てて、下の宮というようになった。
 
 それから後、祭の時には神輿(みこし)をそこまで降すといい、今は南松と称し、小祠がある。
 
 同年の冬10月、国司が右の奇瑞を帝都に上奏して天山大神宮と勅許をえて、北山は天山岳と名付けた。>

 こうして、岩蔵の松に飛んできた光は広島の宮島から飛んできたものだということが三年後に分かった。
 
 
 その話を都に上奏したのち、北山は天山岳という名になった。
 すると、天山という山名は705年以降の呼称ということになる。天山と名付けた由来は分からない。が、帝都と無縁のものではないことになる。

 帝都では誰が天皇だったかというと、文武天皇だった。文武天皇は14歳の若さで即位したので、持統太上天皇が院政を敷いていたという。持統太上天皇は大宝2年12月22年(703)に崩御しているので、当社の話はそれを挟んだ前後の年のものとなる。

 当社の三女神は宮島から飛来してきたもので、宗像からではないことが興味深い。



つなぎレンガ座
3月4日(日)3時~5時
佐賀の神功皇后伝承
「天皇家を支えた武内宿禰の里」
-神功皇后は三度、訪れたー
会場 小城鍋島家Ten
詳細はコチラ

おかげ様で満席になったそうです。
ありがとうございます。






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by lunabura | 2018-02-25 21:34 | 「ウーナ」 | Comments(0)

八咫烏1 




さて、今日から2月11日の歴史カフェの予習復習です。

昨年は賀茂氏について、
八咫烏 -賀茂氏と鉄の民―
というタイトルで、
「古事記や日本書紀に書かれた八咫烏」と
「高句麗壁画に書かれた三足烏」について、
真鍋大覚の資料を元に、その関係を紐解きました。

高句麗壁画は6世紀のものなので、
当然ながら日本の神武天皇の方が古くなる訳です。
何もかもが朝鮮半島から来たとする説を採ると、時系列が合いません。

高句麗壁画には三足烏と共に鍛冶の民が描かれています。
三足烏は太陽の中に描かれています。
鍛冶の民の奉斎する神が太陽の中の三足烏なのです。

この壁画は北朝鮮と国交が無いのに日本であった展覧会のカタログを
たまたま購入していて画像が手元にあるのです。
このカタログを持っている人は日本でもあまりいないと思います。

前回は古事記や日本書紀の文献を読み、
日本書紀に書かれた神社の実例は簡単に紹介しただけとなりました。

今回は逆に、日本の神社の方から見ていきます。

日本の開拓者 
賀茂氏
古代の北部九州に展開した出雲と水沼のハイブリット
―観世音寺の鐘、安心院・浮羽・高良山―

というタイトルです。

「日本の開拓者」と言ったのは真鍋大覚です。
賀茂の一族の名前が大宰府の観世音寺の鐘に陰刻されています。
これは天智天皇の時代のものですね。

そこに至るまで、福津や唐津、浮羽、安心院などなど、
北部九州に点在した賀茂氏の痕跡を見ていきます。
もちろん、ウィキペディアには出ていません。

ということで、2月11日の歴史カフェでは
古事記や日本書紀を読む時間がないので、ここで予習復習です^^

遅くなったから、続きは明日。





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by lunabura | 2018-02-02 23:57 | 歴史カフェ | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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