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阿蘇ピンク石の石棺を訪ねるバスハイク 継体天皇の石棺は熊本製なのか?




阿蘇ピンク石の石棺を訪ねるバスハイク 

継体天皇の石棺は熊本製なのか?



2018年9月20日(木)のバスハイクの案内を忘れていました (^^)/

近畿地方の古墳から、阿蘇産のピンク石で造られた石棺がいくつも出土しています。

熊本の宇土(うと)にはその石の採掘現場が残り、実験考古学によって宇土から近畿まで、船での運搬が再現されました。

この宇土半島には卑弥呼より百年後の女性が埋葬された向野田古墳、伊勢物語や枕草子に出てくる「たはれ島」、景行天皇ゆかりの御輿来海岸などがあります。多彩な史跡を訪ねて宇土半島をまわりましょう。

天神8:30―宇土市立図書館―向野田古墳-馬門採石場跡―宇土マリーナおこしき館―御輿来海岸―たはれ島遠望(住吉神社)―天神

今回は宇土市文化財課の方が同行してくださることになり、現地で説明していただけるというスペシャルなものになります。

「歴史と自然をまもる会」のHPに載せたコースの順番を少し変更しましたよ。

向野田古墳は前方後円墳で、86メートルもある巨大なものですが、埋葬されていたのは40代前後の女性でした。

卑弥呼より100年後の人ですが、宇土には女王的なシャーマンが統治していたとも解釈できますね。その古墳と出土品を見学します。

それから阿蘇ピンク石の採掘現場に行きます。



阿蘇ピンク石の石棺が重要なのは、近畿から数多く出土しているからなのです。

特に継体天皇の墓ではないかと言われる今城塚(いましろづか)古墳にピンク石の石棺があったのは大変な事です。

三つの石棺の内の一つだそうです。

今城塚古墳がさらに重要なのは八女の岩戸山古墳とそっくりな点です。

岩戸山古墳は別区という広場が後円部に付いているのが特徴ですが、この今城塚古墳にもその別区が付いているうえに、設計図が同一なのです。

ただ大きさは今城塚古墳の方がずっと巨大です。

この古墳が継体天皇の墓というのは推測に過ぎません。
戦った者同士の墓が同じ設計だというのは多くの謎を提供します。

で、るな的な考察では、今城塚古墳を継体天皇の墓とする必然性はないのではないかという、また学者の方にクレームをいただきそうな説です。

磐井の乱は「磐井VS継体」と捉えられていますが、実際はちょっと違うのです。

「古事記」では継体天皇は磐井の乱の前に崩御しているのです。
すると、磐井は誰と戦った?
となりますね。

「日本書紀」では継体天皇は磐井の乱の四年後に崩御していることになっていますが、編者は「実際は分からないので百済の書物から類推したから、後の世の人が検討してね」と書いています。

きっと権力者から無理強いされた編者が良心を記したのではないかと思うのです。だって崩御した年が82歳。磐井と戦った年は78歳。ちょっと無理ですよね。

ちなみに「古事記」では崩御した年齢は43歳です。

古事記と日本書紀の差がこれほど大きいのはどちらかが嘘をついているからです。



史料の問題はこれくらいにしておいて、今城塚古墳に話を戻しますが、
もし継体天皇が磐井と戦ったとしても、どうして阿蘇産の九州デザインの石棺に眠りますか?
近くの二上山なんかに良い石材はあるのに。

また、どうして磐井と同じ設計の墓に入りたいと思いますか?

今城塚古墳=継体天皇の墓
では、こんな疑問に答えられません。


継体天皇は磐井と戦う前に死んだ可能性がある。
阿蘇ピンク石に眠りたかったのはホントに継体天皇なのか。

こんな事を考えながら、定説に疑問だらけな私はもう一度現地を見て参りたいと思います。



1 近畿の王たちはピンク石棺を熊本に発注して九州スタイルに彫ってもらって、近畿の王たちや熊本の王たちに下賜した。

2 九州の王たちが近畿に進出した時、故郷の象徴のピンク石棺を持ち込んだ。

皆さんはどう考えますか?


宇土から近畿へ船での輸送の実験が行われたので、その現場のようすを皆さんと歩いて経験してきます。

なお、このピンク石は阿蘇山の9万年前の火砕流で出来たものだそうです。

同じ火砕流が那珂川町では裂田溝(さくたのうなで)の横の轟の丘を形成しました。
奴国の丘では石棺の材料になったり、風化してサラサラの砂になっていましたね。
名島神社では帆柱石になっていました。

神功皇后の旅では上のように、火砕流のいろんな姿を見てきました。

宇土マリーナでは復元された石棺や船を見学して、景行天皇が眺めた御輿来海岸、清少納言が記述した「たはれ島」を眺めながら帰ります。


今日現在、座席が数名分残っているそうです。
一般からも参加できます。4000円です。食事は道の駅にて、各自自由に。

申し込みは「歴史と自然をまもる会」に電話でどうぞ。
                 092-408-7140






20180913





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by lunabura | 2018-09-13 21:43 | バスハイク | Comments(8)

宇土半島へのバスハイクの準備中




宇土半島へのバスハイクの準備中




この数日、バスハイクをいくつも平行して計画していますが、
来週は熊本の宇土半島行きです。


ブログで過去記事で紹介していますが、ピンク石の石棺を生み出した現地に行きます。

これらの石棺が関西からいくつも出ているので、まずは基本を学びたいと思います。






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画像はお借りしました。
また、向野田古墳という、女王が眠る石棺もピンク石の舟形石棺。
未盗掘だったので、期待が大きいです。




幸いに、宇土市の文化財課の説明を受けることも出来るということで、有意義な時間が過ごせそうです。





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画像はお借りしました。
宇土半島の北にある御輿来海岸は景行天皇も驚いたという稀有な眺め。

こちらには景行天皇の足跡がいくつも見られます。
その一つですね。







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清少納言ゆかりの「たはれ島」もまた会えます。
この画像は曇りだったんですね。今度はどんな海の色でしょうか。

玄界灘とは違う内海の色が楽しみです










20180911



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by lunabura | 2018-09-11 20:40 | バスハイク | Comments(0)

薄野神社(一ツ目神社)(2)水源と製鉄


薄野神社(一ツ目神社)(2)

水源と製鉄



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境内の裏手には夢のような池。



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クレソンの白い花の咲く流れが、その池に注ぐ。

勾配の少ない川のせせらぎはどこまでも美しい。


この敷地は半円の形で森に囲まれていて、周囲に周回道路がある。
その奥にいざなわれていくと、絶え間なく湧き出す水があふれている。

近くに八大竜王が祀られていた。


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ここを水源として水は流れ出していた。



振り返った。


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小川がお分かりだろうか。
クレソンの道となっている。

ここが敷地の一番高い所。
そして奥に池があり、薄野神社があって、天目一箇命が祀られている。


スコットランドの草原と同じ。
これは五月の写真。
今ごろは草は猛々しく繁茂しているだろうが、スコットランドの夏の草はこの背丈までだった。

植生はほとんど似ていたけど、これ以上は育たない北の地がケルトの地だった。




製鉄には水が沢山要るという。
はてさて、ここではどこが工房だったのだろうか。
帰り道、もう一か所、プールのような四角の池があった。


ここには人工的な川と自然の川の二本が流れていた。



「近年まで製鉄していましたよ。左に洗コウの川があったでしょう」
「え?!!!!!」
見逃した!

数人で戻ってみると、見慣れた段々の疎水しかない。
「これだ」
「え?これが?」


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それは二本の川のうち、人工的な川の方。
単に段々にしてあるだけかと思ったけど、砂鉄を選別する作業場だったんだ。

何と合理的な設計だろう。

馬蹄形になった谷の奥にある水源から水を引いて作業場にする。
そして、中央には自然のままの流れを残す。

馬蹄形?
うん?

馬蹄形に囲まれた傾斜の緩い谷と二本の川。

この美しい「一ツ目水源」を思い出していると、重なり合う光景が心に浮かんでくる。

はたして、同じだろうか。
航空写真を突き合わせてみよう。

(つづく)





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by lunabura | 2014-08-10 21:00 | (サ行)神社 | Comments(4)

薄野神社(一ツ目神社)天目一箇神を祀る宮


薄野神社(一ツ目神社)

天目一箇神を祀る宮


アイラトビカツラがあったのは熊本県山鹿市菊鹿町相良。
その谷を下って山塊を迂回していくと、こんな景色。

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見事な神名備山。
そして、その向こうの丸い山の左の稜線に私の目は釘付け。

見たことのある風景。
そう、スコットランドで、こんなふうに巨岩が立っていたっけ。


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おお、車はどんどん近付いていく。



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ついに正面に回り込み始めた。
これがあの有名な「不動岩」なんだ。
そそり立つランドマークそのもの。

古代、世界のどこからやって来ても、あの岩を見つければ目的地に着く。
こんなに天気がいいのに、かすんでいるのはpm2.5のせい。

さて、この岩からぐるりと西の谷に入っていくと、目的の薄野神社。
天目一箇命を祀る神社に行けるのだ。

かなり迷いながらも、ようやく到着。
山鹿市久原薄野


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思いがけず開けた土地に清浄な空気が流れていた。

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楼門の左右には大臣?が控えている。
そして、右を見た。


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まさしく一ツ目(ひとつまなこ)そのものだった。
ついに来た。
名前だけは聞いている鍛冶の神を祀る宮。



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薄野神社。一ツ目神社。
祭神 天目一箇(あめのまひとつ)命。



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「ほら」
と手渡された石。何だったっけ。炉の壁石だったっけ?
製鉄のあった証拠なんだけど…



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神殿は四方に赤い鳥居がある、珍しい造り。
彫り物も豪奢で、 
「現在の神殿は焼失後、元禄六年(一六九三)二月建立したが再び炎上 安永八年(一七七九)再建。拝殿は天明三年(一七八三)十月、楼門は寛延四年(一七五一)の建立である。」と書いてある、

創立は1500年前。
「今から約千五百年の昔、繼体天皇の四年(五一〇)十一月高天山の神主若山連(むらじ)
の後裔吉田氏が斎き祀ったといい県内屈指の古社である。」

福岡では稲荷神社が多く、このような名前の神社には出会っていない。
しかも、稲荷神社は急な坂を上った小山のピークにあるものが多い。
それに対して、ここは石段一つない、フラットな地形だ。
鉱物が違って、製法が違うのだろうか。

思い出すのは、和水町(なごみ)の江田船山古墳を調べていた時、
熊本では弥生時代に製鉄があっていた、と書かれていたことだ。

当然ながら考古学的には弥生時代の製鉄は否定されている。
しかし、日本全国を調べずに定説が出来たのかもしれない。

阿蘇山の噴火で砂鉄が一メートルも積もった地層もあると小耳にはさんだ。
砂鉄の上で火を焚けば、簡単な鍋らしきものが出来ると真鍋はいう。
中東では焚火をすればガラスが出来るのと同じ理屈だ。

ここは510年の創立ということなら、磐井の君が生きていた時代だ。
磐井の勢力は肥(佐賀~熊本)に及んでいた。
ということはここもまた磐井の勢力下にあったのかもしれない。

境内の由緒書には、さっきの不動岩のことも書かれていた。
伝承によると、往古旧三玉村蒲生の不動岩と旧三岳村彦岳権現が首引きをした時、この地にあってわが子の首引を案じていた母神の目に首引きの大綱の端が当たり、一目をうしなわれたので、その母神を祀って一ツ目神社と称するようになったという。
 また民俗学上では天目一箇神は古代における鍛冶集団の祀るところであるともいう。
 本社を有名にしたのは 寛政のころ(十八世紀)伊勢松坂の本居宣長の門に学び 肥後の国に初めて国学を導入した社司帆足長秋である。
ということは、天目一箇神とは女神なのか。
ここは女神の宮だったのだ。


境内神社として八坂神社(祭神素盞嗚命)熊野座神社(伊弉冊命)木幡神社(天忍穂耳命)稲荷神社(倉稲魂命)天満宮(菅原道真)を祀る。

昭和二十七年新法人切り替えによって久原の本今田・永田・本霊仙に奉祀する菅原神社三社および催合の天神社を飛地境内神社とした。祭神はいづれも菅原道真公である
稲荷神社があった。天満宮も。
道真公を祀る集団はやはり製鉄と切っても切り離せないことが確認できた。

誰か、コメントで道真は九州王朝を再興したかったのではないか、
と書かれていたのを思い出した。

道真の追手は容赦なかったという話を耳にした。
太宰府で亡くなったのではないという話がチラホラ聞かれる昨今だ。

それにしても、この境内は心地いい。
人家が無いからだろうか。
この奥には池があり、泉があった。
(つづく)



教えて!
薄野の読み方は「すすきの」でいいですか?

カテゴリ、とりあえず、「さ」に入れておきます。



薄野神社




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by lunabura | 2014-08-09 23:41 | (サ行)神社 | Comments(0)

アイラトビカズラ



アイラトビカズラ

不思議で、ゆかしい名前のカズラ。
その花は巨大だという。
かつては花が咲けば有事が起こる不穏な花が、今は毎年咲くと聞いた。

しかも、日本では一か所だけ自生しているという。
今では他に二か所見つかっているが、その数は余りに少ない。

太宰府地名研究会主催の「菊池山鹿玉名の神々」のツアーでその花を見ることが出来た。


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この厚い花弁の光沢は熱帯雨林を想像させた。
その香りは蜜を発酵させたような香りで、最初は良い香りと思っても、しばらくすると気分が悪くなっていく。
その香りは今でも思い出せる。

虫たちに最高のごちそうを提供するために、発酵という手段を選んだのか。
腐らない知恵なのだ。
そう思ったが、これは虫媒花ではなく、風媒花だとwikiには書いてあった。

このような密林の状態で風を利用する花なのだろうか。
印象と違うので違和感を持った。
Wikiにはさらに
「中国の長江流域が原産地とされ、日本にも広く分布していたとされるが国内では2カ所を除き絶滅」とあった。

類まれな花を見ることが出来た。




しかし、九州の古代史を明らかにしつつある地名研究会の案内なのだ。
着眼点は花ではなく、蔓(つる)だった。

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そう、筏(いかだ)のロープ。
前回、安曇族の島・相島(あいのしま)で見た「ユヅカツラ」が丸太にふさわしい木材だとすると、それを結び付けるロープが必要だ。

それがこのカズラではないかという話なのだ。
先程紹介した、石で出来た竜蛇「石づち」が境内にある久米八幡宮の吉田宮司の着眼で、

「凡そ、二千数百年前、呉越同舟の呉が亡んだ前後、呉王夫差の一族が列島に亡命し、有明海から熊襲の領域に入ってきたと考えられ、その際、大木で筏を組んだとすれば、その素材がアイラトビカズラだったのではないか?」といった提案を行われました。
(久留米地名研 古川清久)
ということでそのカズラを実見しに来たのだ。

呉なら志賀島の安曇族も呉の末裔だと言っていた。
安曇族は中国語を理解し、漢字も知っていた。

中国の長江付近を原産地とするカズラは
人の手によって日本にもたらされたと考えるのが理にかなっている。

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉,勾吳。

これはwikiから。

筏なら絶対沈まない。

「無人島に一つだけ持っていくとしたら何を持っていくか」
という問題を考えて、私なら「種」だと思ったことがある。
「種」こそ命をつないでくれる。

アイラトビカズラの種を持って来て筏に乗った人たちがいると考えるのは合理的だ。
しかし、思う。
挿し木できるんじゃないか。
一時期「幸福の木」がはやった。
段ボールの中に十センチ程度の長さの枝が入っていた。
それに土と水を与えれば育った。
ハワイのお土産にそんな「枝」や「種」を貰ったりした。

殆どの木が挿し木が出来る。
私が呉人なら、何種類もの木を腐葉土の入った壺に入れて、抱えて乗り込むかも知れない。

ロープの材料、丸太の材料、蚕の食料、竹のあれこれ、稲、あわ、ひえ…。

欲張りだから、かなり重い目にあっただろうな…。
そんなことを考えた。


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樹齢千年。


熊本県山鹿市菊鹿町相良




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by lunabura | 2014-07-22 21:28 | 相島 | Comments(6)

久米八幡宮・石づちは白い竜


久米八幡宮(くめ)

石鎚(いしづち)は白い竜
 


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熊本県の菊池市。
阿蘇山の北西部に久米八幡宮はあります。


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御祭神は品陀和気命(ほむだわけのみこと)。(応神天皇)
健磐龍命(たけいわたつのみこと)
武内宿禰命。
住吉神(底筒男命・中筒男命)

この境内の左手に不思議な石積があります。菊地遺産の説明板がありました。
石鎚(いしづち)
説明
久米八幡宮の境内地には、石鎚(いちづち)という呼び名の総延長が、約40mの石群がある。用途や目的は、不明な点が多いため、西南戦争の陣地跡とも、屋敷の石塁とも言われ、諸説あるが、昔からイノシシやシカよけの柵と伝えられている。

(菊池遺産 第ふるさとH21-8号)



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庭の造作のように見える石積みです。


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これは反対側の奥の方。
ここでは三段になっていますが、一番上の石積みは延々と続いています。
写真の中央部の木の根元がスタート地点です。


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手前から、くねくねと曲がって、全体では半円を描いています。


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ここまで来ると、蛇の蛇行を連想させます。



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蛇の胴体から足が左右に出ています。



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灰色の石の峰に当たる部分には白い石が置かれていて、雨が降るとベージュ色に近い白い姿になるそうです。
いかにも蛇のウロコを連想させます。

そして、背中には突起上に石が立てられていて、かつてはいくつもあったのが、
今はこの石が残っているだけらしいです。
つまり、この足のある蛇はは背中にトゲがあるのです。



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そして、ここが最終地点。しっぽが二股になっているように見えます。
宮司の話によると、かつてはまだ先の方にも続いていた可能性があるとのこと。
そうすると、片方は足かもしれません。


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そして、再びスタート地点に戻ってきました。
立石の信仰があるようです。紅白の幣の向こうにあるのは甕です。


かつての戦争で、陣地にされたことがあって、かなり破壊されたようです。
また、この半円に対応するもう一つの半円が存在していた可能性を示すように
石が散乱しているそうですが形は消滅しています。

そうすると、双竜が左右から向かい合って円を描くようなデザインだったのかも知れません。

神殿の真下に何かあったのではないかという話もありました。

使われた白い石はず山の方に行かないと採れないそうです。
確固たる強い意志がないと、これほどの物を作ることができませんね。

これを見た時は、古代中国の、夏(か)か殷(いん)で発掘された地上の竜を思い出しました。
竜をトーテムとすることの出来る身分の一族が来たのだろうか、なんて想像しました。

何せ、ここは熊本。
中国大陸から、ダイレクトに船が入ってくる地域です。

石で造られ、くねりながら足を持ち、トゲのある竜。しかも、しっぽが二つ。

そのあと、同じキーワードでくくれる福岡県新宮町の相島の長井浜の石塁を見てから、
海洋民族の作ったものかも知れないなとも思ったりしたのでした。

当宮は八幡神が上書きされるまえに、古代文明の聖地だったのでしょう。
「久米」からは「安曇目」を思い出させます。

これを見た後だったので、相島の積石塚の石塁も石竜ではないかと思ったのでした。


久米八幡宮 熊本県菊池市泗水町豊水557





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by lunabura | 2014-07-10 21:16 | 相島 | Comments(0)

トンカラリンはやっぱり不思議


トンカラリンはやっぱり不思議

前回の江田船山古墳と同じ丘陵にトンカラリン遺跡があります。
(古墳と遺跡の間に県道が通っているので、別の丘陵にみえますが)

県道から急坂を車で上り、「どこかな~」と言う頃に小さな案内板。
二股になって、「どっちかな~」と思うと左手に遠慮がちな案内板。

下って行くと説明板があったので、「ここに止めていいかな~」と言いながら
止めてみたら駐車場でした。

そこから、どこにあるのかキョロキョロすると、家の壁に手作りの「トンカラリン」の矢印。
「あった、あった。みなさん、こっちですよ~」

一緒に行った二人は二度目でしたが、それでも「どこかな~」と言いながら辿り着きました。
このブログ見て、見学に行く方、迷いそうでちょっと心配。

でも、現地はとても整備されていましたよ。  



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なにこれ?
いきなり怪しげなトンネル。とても狭くて覗き込むと石段。
な、なんでここに石段?


奥には光が見えています。
小学生向きのサイズ。
入るのは、ためらって、スルー。




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その先、こんな階段が幾つもあって、右手の方に遺跡がずっと続きます。
トンネルがあったり、露天になったり。

ガイドがいないと、どれが遺跡が分からなかったな。
  



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「あ、あれですか」
穴をめっけ。
「入りますか?」
「もちろん!」
トンネルを避けて歩くIさんに、厚かましく「護衛に一緒に入ってください」とお願い。

ネットで予習していたけど、
「汚れていい恰好で」と書かれていたのを忘れていた。
まさか、トンカラリンに行けるとは思っていなかったので、今日は珍しくヒール。


でも行く!
テンションは高め。迷いはない。汚れそうになったら戻ればいい。
立って歩けます。



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床はこんな感じ。





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天井は石の蓋!

懐中電灯がないと真っ暗です。
携帯のライトを点けたけど、光は足元までは届きません。
奥の方は岩がゴロゴロしていました。


トンネルはすぐに終わりましたが、またさらに大きなトンネル。






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出た所。


さらにトンネル。
しかし細すぎて、ついに体が通らない。
ここで断念。


「るなさん、どう思う」
「掘っていった感じがする。鉱脈を掘り進めて行った趾かな。
足元にキラキラする白い砂がありましたよ。香春岳と同じ真っ白な石」

これ以上はさすがのるな探偵もお手上げ。





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帰り道、民家の石積みが独特。長い石を横に並べている。
あとで、石切り場があるという情報も入って来ました。


「もういいですか」とIさん。時間が迫っています。
「はい。この手の泥んこ探査はくるま座さんに任せましょう」






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案内板を見ると、三分の一も見ていなかった。
イラストを見る限り、下の方はいかにも作業場っぽい。
でも、祈りの気配もある遺跡だった。

上の方には神社があり、磐座のある山も見える。
組み合わせて、総合で探査するべき遺跡だろう。

神社の神さまの名前がヒントになりそうだと思って調べると、
鶯原神社は菅原神社とも言い、道真公が祀ってあるという。

ああ、それなら、やはり鉱山に関係あるかな。

ネットは便利。
かむろ山を調べると登山記録も出てくる。
頂上には石祠があって「彦嶽社」の石碑。磐座は記録なし。


20分の訪問でしたが、とても楽しかった。

我こそはと思う方、懐中電灯と軍手、ズック必携 (・_・)

以上、謎のトンカラリンでした。^^









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by lunabura | 2014-05-07 19:00 | <遺跡・史跡> | Comments(0)

江田船山古墳・ムリテら三人が眠る奥津城


江田船山古墳
ムリテら三人が眠る奥津城


ついに、熊本県和水町(なごみ)の江田船山古墳にやって来ました!
教科書に出てくるし、当ブログの百済の前方後円墳にも出て来て、
現地に立ってみたいとずっと思っていました。


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円墳と思いきや、

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前方後円墳でした。
手前のカーブの辺りは周溝で、とてもきれいな形をしています。

環境、スゴイ。
こんなに手入れされた環境の古墳、初めてです。



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前方部から後円部を取ったのですが、入口が斜め!しかもくびれ部から入る。
この向きに、ちょいと驚いた。


そして、この鉄の扉を自由に開けることが出来るのです!!!(^o^)/

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鉄の扉を開ければ家形石棺。
蛍光灯がいくつかあるので、竹原古墳のように怖くはなかったです。( ´艸`)
う~ん。デカイ。

横口式ですね。つまり追葬が出来ると言うこと。
調査では5世紀後半~6世紀前半の三人分の副葬品が出土した、となっています。
それにしても、石室はどうなってるんだろう。
部屋を見回すと、壁や天井は現代の加工なんです。
羨道も見当たらないし。

説明板にはその記述がないので、もしかしたら石室は無しかな?
石棺の上に直接土を重ねた?

この古墳は明治6年(1873)に夢のお告げで発掘されました。
未盗掘でした。
出土品は例の調子で地元にはありません。(´・ω・`)




ただ、現場に写真があり、レプリカが資料館にあるので、理解しやすいです。
この日は資料館に行く時間はありませんでした。
副葬品の写真はウィキぺディアなどに掲載されています。

副葬品の鉄剣に銀で象眼されていて、ムリテに与えたということが分かっています。(異説あり)

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で、副葬品には金の素敵なイヤリングもさることながら、三環鈴が出ています♪

外側には埴輪でなく、石人が置かれていました。


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これは横のの石人レプリカ公園。

で、何が知りたかったのかというと、この古墳の所在地、菊地川流域と百済の前方後円墳には縁があるので、現地を見たかったのです。

次の記事を自分でも読み直しました。
「百済の前方後円墳」
http://lunabura.exblog.jp/i189/



1 栄山江流域の前方後円墳の被葬者は副葬品から考えて「周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊地川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定」される。
「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)より
このように、菊池川下流域からも百済に向かった武人がいたわけです。

百済で見つかった前方後円墳群は倭人が造ったもので、
築造年代は5世紀後半から6世紀前半。
江田船山古墳は「5世紀後半、6世紀初頭、それに6世紀前半の3つの時期」(熊本HPより)。
ぴったり重なっています。

百済の被葬者はゴホウラ貝など倭国のものを持って埋葬され、
百済で手に入れた金銀の威身具は故郷に送る。
そんな推測がなされています。

その黄金の威身具に包まれて江田船山古墳に埋葬されたムリテは
「典曹人」という身分で、行政事務の役人と考えられています。

任那四県を百済に譲渡した事件、また継体天皇と磐井の戦いが起きた時代です。
ムリテは朝鮮半島の情勢、また筑紫君・磐井をおびやかすヲホド王(継体天皇)の状況を
どのような思いで見ていたのでしょうか。



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右手に円墳。中央奥が江田船山古墳。
夏には祭もあるそうです。
市民に愛されてます。^^




江田船山古墳 熊本県和水町(なごみまち)









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by lunabura | 2014-05-05 22:06 | <遺跡・史跡> | Comments(2)

たはれ島と住吉神社・清少納言の父は肥後に赴任していた


たはれ島と住吉神社
清少納言の父は肥後に赴任していた
伊勢物語や枕草子に出て来る島

馬門から船に乗せられた阿蘇ピンク石は川をここまで下ったのでしょうか。
次に訪れたのは住吉神社でした。距離は約2キロです。

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かつては岬か島のような地形に近づいてワクワク。
その突端に立つと、面白い島がありました。

風流島と書いて「たはれしま」と読みます。
なんとも風情のある岩島です。
ここは住吉自然公園。

この島が伊勢物語や枕草子で取り上げられているそうです。
掲示板を写しましょう。

枕草子を書いた清少納言の父親・清原元輔は肥後国司として派遣されております。
島の大きさは東西65メートル、南北約40メートルで、高さは9.4メートルです。頂上には高さ1.3メートルの小さな鳥居が建っております。

平安時代につくられた伊勢物語の枕詞として「たはれ島」が使われています。
男女の色恋に関する話に用いられたもので、女の返しことばの中に「たはれ島」が出ています。

昔、男、筑紫まで行きたりけるに、
「これは色好むといふすきもの」とすだれの内なる人(女)の言ひけるを聞きて、
男、返し、
     染川を わたらむ人の いかでかは
     色になるてふ ことのなからん
女、返し、
     名にしおはば あだにぞあるべき たはれ島
     浪の濡れ衣 着るといふなり

へえ。伊勢物語のマメ男も筑紫に来たんだ。
なんてこったい。ちっとも知らなんだ。

彼は筑紫でも色好みで有名だったんですね。恋多き中将。

簾の外から口説いてきた男があの有名な方と知って、女は
「あなたは色好みで有名なあの方ね」と言ったので、男は
「染川という名前の川を渡る人は どうして色(恋)に染まらないでいられましょうか。
私も、あなたにすっかり恋してしまった」と詠んだ。

女は返した。
「まあ、(恋多い女と浮き名が立って)たはれ島のように有名だって言われても、それは嘘よ。
『たはれ島』に立つと波が寄せて濡れてしまって濡れ衣になるという「濡れ衣」よ、そんな噂。」

例のごとくハチャメチャのるな的口語訳でした。

たはれ島はあまりに小さくて、波が寄せると濡れてしまうっていう感じなんでしょうね。
でも、全国規模で有名だったらしい。
この島は平安時代からあまり浸食されていないらしく、
この面白い形はさほど変化ないのでしょう。
鳥居の高さが1.3mなんで、島が却って大きく見えるという錯覚を生み出していました。

清少納言は父親に付いてきたのかなあ。
土佐日記の紀貫之は、留守の間の家の世話を隣人に頼んだりしているので、
昔は単身赴任だったとは思われず、
清原元輔も一家を連れての赴任かも知れませんね。
そうすると、清少納言も付いて行ったということになります。
枕草紙の話題のジャンルの広さは、こういう旅から来てるのかも。



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さあ、鳥居と石段があれば行かずにはいられない。

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しばらく上るとフラットな場所に出て、海が見渡せました。
灯台があったらしいです。
るなの目はあれ?磐座のありそうな石組に釘付け…。

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お。
磐だ。左はいくつもの巨岩が。

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石段を登り切ると神門。
これは古い。

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頂上部はフラットで思ったより広い境内になっていました。
御祭神は住吉三神と神功皇后です。

延久3年(1221年)に肥後国司菊地隆公が西国鎮護、海上安全の守護神として天皇の勅許を得て、摂津大阪の住吉大社の御分霊を親奉し、海路を経て、当時海上の孤島であったこの小島に奉斎したといわれる。
ということです。

意外に歴史が新しいです。
ここにはもともと磐座があって、古代祭祀場があったんでは?
それを整地して神社を建てたのではと想像は膨らむのでした。

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これがかつては島だったんですね。

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それに向き合うように「たはれ島」がありました。
海の向こうに山がうっすらと見えます。
右の方は金峰山です。
あそこにも磐座が沢山あるんですよね。
懐かしいなあ。
また、巨石巡りをしたくなっちゃった。

たはれ島




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by lunabura | 2013-06-29 21:42 | (サ行)神社 | Comments(0)

馬門 阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました


馬門
まかど
阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました

久しぶりに天草トレッキングの報告の続きです。

行ったのが昨年の秋 \(◎o◎)/!
すっかり記憶が薄れています。
でもずっと心に残っていた所でした。

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大歳神社を後にして、山の方に向かって歩いて行きました。
斜度は緩やかで、登っているという感覚はありませんでした。

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そして、人家が途絶え始め、最後の人家が…。
とてもとても大きな屋敷です。
しかし、荒廃し始めていました。
こんな山の中にこれほどの大きな屋敷があったのですから、よほど栄えた場所だったのでしょう。
そこから右に曲がり一車線の舗装道路を進むと並行して川が流れています。

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そして、まもなく岩が散乱しているような場所が見え始めました。
ピンク?

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阿蘇ピンク石の石切り場です。
思ったより近い所にありました。

名前通り、石がピンク色です。

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乾燥の具合によって、色が違っています。

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丸く加工された石。これは現代アート。

ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。

美しいものを求める欲望と、それに応えようとする人々の
不可思議な連携のようなものに思いは巡らされ、
それが文化を創りだす原動力になったという人間力のたくましさに
感動さえ覚えます。

いったいどうやって運ばれたのか、
平成の人々の心をも動かして実験考古学がなされました。

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当時の運搬器具の修羅で運んだそうです。


私の頭の中は、この道をどうやって運んだのだろうという事でいっぱい。


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これは大歳神社へ戻る道。
唯一の緩やかな登りの場所です。左側には川が流れています。
考えたら、川の中を引いて行った方が合理的かもと思ったりしました。

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歩いて戻ってくると、再び大歳神社のピンクの鳥居が見えて来ました。
ここまでの距離を地図で見てみると500mほど。意外に近いですね。
そして、大歳神社で最後の祈りをして、


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広い川に出て、海へと漕ぎだしたのでしょう。
長崎の西海岸を通って、玄界灘、関門海峡を通り、
瀬戸内海を越えてはるばると運ばれたピンクの石棺。

どれほどの愛着がこれにあったのか。
古代の王たちの思いは測り知れません。

「ひもろぎさん、さっきの所に牧神社があったのに。」
「え?牧?」
「ここには牧があったのですよ。」
そんなあ。
まさか、あの石切り場の奥に神社があったなんて。
あの地形で?
知ってたら絶対行ったのに。(くすん)

そうか。馬に引かせれば意外に簡単だな。

聞くところによると、ピンクの石を産する所は数ヵ所あるそうです。
ここは今も変わらず地形が残っているので素晴らしいですね。

さて、当地から運ばれた石棺が出土している現地のようすは

ちょっと考古学
熊本から琵琶湖まで運ばれた石棺
http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/14054787.html

の写真で見る事ができます。
副葬品として、金糸が出たもの、冠が出たものなどがあって、
やはりかなりの身分の人たちのようですね。

羨道の傾斜などは、九州の形式だそうですが、如何でしょうか。
そうだとすると技術者も行ったことになります。
あまり古墳の中に入っていないから、一メートルも傾斜のある古墳って
どこにあるかなあと思ったりします。
熊本の方の事情は

装飾古墳今昔紀行
http://blog.livedoor.jp/warabite/tag/阿蘇ピンク石

が詳しいです。
何?牧神社はピンク石で出来てたって?
そんなあ。
もう再訪する元気はないよ…。


地図 馬門

写真でも、ご覧ください。

天草トレッキングの過去記事は下のタグの ♯天草トレッキングからどうぞ。



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by lunabura | 2013-06-27 20:45 | ピンクの石棺と馬門 | Comments(8)
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