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ひもろぎ逍遥

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比較:向野田古墳と沖出古墳3 玉類と埴輪



比較:向野田古墳と沖出古墳3 

玉類と埴輪



嘉麻市と宇土市という離れた所にある前方後円墳の比較シリーズ、副葬品の続きです。


8 玉類







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向野田古墳は勾玉、管玉、小玉です。勾玉は緑色。大きいのと小さいのが一緒なのは珍しいと思いますが、どうでしょう。玉類のセットは弥生時代のものとそう変わりがないような印象です。

沖出古墳は残念ながら盗掘されていますが、きっと目立つような宝だったんでしょうね。もし玉類が沢山あったなら、被葬者が女性ではないかと推測できたんですがね。残念です。





9 埴輪を比較しましょう








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向野田古墳の埴輪はやや厚いそうです。朝顔形の円筒埴輪が出ています。

沖出古墳の円筒埴輪も朝顔形というそうです。これを見ると、向野田古墳の埴輪も想像できますね。
この朝顔形が4世紀後半の特徴だと、朝倉市の宮地嶽古墳の説明板にありました。

沖出古墳の円筒埴輪に舟の線刻が見つかっています。これはキャビン付の二本の櫂(?)というエジプト太陽の船風のデザインですね。浮羽の装飾古墳などに沢山描かれています。

家形埴輪のレプリカを載せましたが、現物には直弧文があると、ある本に書かれていました。確認したいな。碓井郷土館にあるそうです。近場の人見てみてください。




さて、以上で主だった副葬品の比較を済ませました。

一つずつ比べていくと、これから何を基準に見学したらいいのか、少し分かったような気がします。


遠く離れた同じ時代の二つの古墳が古墳の形が同じ前方後円墳の柄鏡型で、副葬品も同じような雰囲気でした。同じような価値観を持っているような印象を受けました。

古墳を造る氏人に土師氏がいますが、自由に招かれて長たちのために造ったのでしょうか。それとも通説の許可制なのでしょうか。西暦300年代後半、卑弥呼から150年後頃の世界をもっと知りたいですね。

宇土市立歴史資料館では撮影許可をいただき、どんどんSNSに載せてくださいと言われました。ほんの一部の紹介でしたが、テーマを決めて蔵出しもしていきたいと思います。



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20181217





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by lunabura | 2018-12-17 20:32 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

向野田古墳 宇土市 4世紀後半 前方後円墳 竪穴式石室 舟形石棺 女性 



向野田古墳 宇土市 

4世紀後半 前方後円墳 竪穴式石室 舟形石棺 女性 




前回は早く比較したかったので、いきなり二つの古墳の比較を始めましたが、今日は落ち着いて熊本の向野田古墳の探訪記を書きたいと思います。4世紀後半の前方古墳です。






 熊本県の宇土半島の根元に走る鹿児島本線と国道3号線の間、不知火御領簡易郵便局を目指して行きました。そこから東の山に向かって曲がります。








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バスの中から撮りました。正面の山ではなく、右の山のもう一つ奥を目指して歩いて行きます。
すぐに左手に案内板があり、いきなり赤土の山を登ります。

今思えば後円部を登っていたようです。
落ち葉と雨で滑りながら登っていくと少々フラットな所に出ましたが、それも後円部の段の一つだったのでしょう。







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まもなく墳頂に出ました。
周囲の地山を削って前方後円墳の形にして、削った土を円墳上に盛り上げているそうです。


この窪みが竪穴式石室の跡で、395cmの石棺がここに埋め戻されています。








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埋葬されていたのは30代後半~40代の女性です。






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石棺の中には頭の周囲に鏡が3面、右手元に碧玉製車輪石、胸にヒスイの勾玉、ガラス小玉などが添えられていました。足から1メートルほどの所には奄美、沖縄産のイモ貝製の貝釧が置かれていました。

石棺外には鉄刀や鉄剣、ヤリ、鉄斧などの武器類が置かれていました。

この古墳も破壊される直前に高校生が掘って石室を掘り出したそうです。
その後、前方部が削られてしまい、現地は円墳のような形になっています。



この日は、この後、雨が大降りになり雷まで鳴り始めたのですぐに下りました。
手荒い歓迎ぶりでした。


副葬品は宇土市立図書館の歴史資料館に置かれています。人骨は熊本大学にあるそうです。

熊本地震で宇土市市庁舎が壊れたのをテレビで見ましたが、見事に再建されていました。資料館はこれからですね。

最初に目に飛び込んで来たのが甕棺でした。
「懐かしい!こんな所に甕棺がある!」
と声を挙げたら、甕棺の南限がここだそうです。甕棺を持ち込んだのか、現地で造ったのかは不明だそうです。


地形を見ると分かりますが、古代において九州を北から南に下る時、船でも陸でも必ず通らねばならない所で、両脇の山間部に古墳群があり、今回の向野田古墳は東の方に築造されていました。



宇土市向野田古墳 赤マーク






20181214






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by lunabura | 2018-12-14 20:06 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

比較してみた 向野田古墳と沖出古墳1 4世紀後半 竪穴式石室 石棺


比較してみた 

向野田古墳と沖出古墳1 

4世紀後半 竪穴式石室 石棺




熊本県宇土市にある向野田古墳(むこうのだ)は4世紀後半で竪穴式石室です。
全長が約86メートルの前方後円墳ということで、先日紹介した福岡県嘉麻市の沖出古墳とキーワードが重なります。

重なるのは「4世紀(後半と終わり頃)、前方後円墳、竪穴式石室、石棺」です。

沖出古墳は全長68メートルだったので、向野田古墳の方がずっと大きいです。

が、向野田古墳の石棺は「舟形石棺」なので、沖出古墳の「割竹形石棺」と似ています。

舟形石棺と割竹形石棺の差というのはそれほど明確ではないそうですが、遠く離れた宇土市と嘉麻市に造られたほぼ同じ時代の古墳について比較してみたいと思います。



1 北を上とした場合の比較

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地図上で北を上にした場合、二つの古墳は同じ方向を向いているのか。
それを比較した画像です。

宇土市の向野田古墳は後円部が南にあり、主軸はやや傾いていますが、石室だけは南北を採っているようです。現地説明でも石室の向きが重要だと言われていました。

これに対して嘉麻市の沖出古墳の主軸は全く南北を意識していません。主軸は田川の位登八幡神社と名の無い山のピークを意識していました。少しずらして脊振山頂と位登八幡神社のラインも候補に上がりましたね。

向野田古墳は地山を整形して削った土を円墳の墳丘に盛ったというので、地形に影響を受けたのかもしれませんが、あるいはやはり何かのライン上に築造されたのかもしれません。(チェリーさんの宿題が増えますねえ)






2 主軸を揃えて形を比較 石棺の方向は?
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今度は主軸を水平にそろえてみました。
形がそっくりですね。柄鏡形でいいのでしょうか。円墳に向けて細長い方形墳があるのは古式だそうです。そのあと段々バチ形に開いていくとN氏に習ったのですが、ネットで検索すると、バチ形→柄鏡形→バチ形と変貌していました。

もちろん、一番左のバチ形は箸墓古墳のことですね。ずいぶん無理な変遷史に変貌していますね。

脱線はこれまでにして、二つの古墳の、主軸と石棺の方角を比較しましょう。
全く違っていますね。法則性はあるのでしょうか。謎が出てきました。







3 竪穴式石室の比較

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どちらも竪穴式石室なので、設計を比較してみましょう。
向野田古墳は床を整形して石を並べ、石棺ギリギリに石を置いています。蓋は石を並べています。
沖出古墳は崩れていたせいか、少し乱雑に積まれてみえます。







4 石棺の比較
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向野田古墳は舟形石棺です。沖出古墳は割竹形石棺です。
いずれも縄掛け突起(なわかけとっき)は付いていますが、その違いは底の形です。

ウィキペディアで両者の違いを調べました。
〈【舟形石棺】刳抜式の石棺の一種であり、身と蓋を合わせた断面は扁円形をしており、同様の方法で作られた割竹形石棺より安定性があり、両端が斜めに切られている形状が船に似ていることからこの名称が付いている。

割竹形石棺の変容形と目されており、縄架け突起が付けられていたり、石枕が作り出されていたりする。

主に4世紀中葉~6世紀前葉に熊本・佐賀・宮崎・香川・島根・福井・群馬・茨城などの各地で在地の石材を用いて首長の棺として造られ、各地に普及した。〉

以上からは「割竹形石棺→舟形石棺」と変化しているようです。
弥生時代の糸島市の平原遺跡が割竹形木棺なので、木から石に変化していくのでしょうか。

向野田古墳(4世紀後半)と沖出古墳(4世紀終わり頃)の年代を比較すると
向野田古墳の方がやや古いのでしょうが、石棺の時代変遷は逆転しています。
時代が接近しているので、どちらが古いとは一概に言えないようですね。

が、二つをじっと見ていると、形に込められた思想があるのではないかと思えて来ました。

木の中に永眠するのと、船の中に永眠するのとでは、葬送の思想が違うような気がしてきたのです。

私は一般人ですから、考古学的な素養はありません。
ですから自由な素の観点で印象を記録しておきたいなと思います。


20181212






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by lunabura | 2018-12-12 21:30 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

阿蘇ピンク石の石棺を訪ねるバスハイク 継体天皇の石棺は熊本製なのか?




阿蘇ピンク石の石棺を訪ねるバスハイク 

継体天皇の石棺は熊本製なのか?



2018年9月20日(木)のバスハイクの案内を忘れていました (^^)/

近畿地方の古墳から、阿蘇産のピンク石で造られた石棺がいくつも出土しています。

熊本の宇土(うと)にはその石の採掘現場が残り、実験考古学によって宇土から近畿まで、船での運搬が再現されました。

この宇土半島には卑弥呼より百年後の女性が埋葬された向野田古墳、伊勢物語や枕草子に出てくる「たはれ島」、景行天皇ゆかりの御輿来海岸などがあります。多彩な史跡を訪ねて宇土半島をまわりましょう。

天神8:30―宇土市立図書館―向野田古墳-馬門採石場跡―宇土マリーナおこしき館―御輿来海岸―たはれ島遠望(住吉神社)―天神

今回は宇土市文化財課の方が同行してくださることになり、現地で説明していただけるというスペシャルなものになります。

「歴史と自然をまもる会」のHPに載せたコースの順番を少し変更しましたよ。

向野田古墳は前方後円墳で、86メートルもある巨大なものですが、埋葬されていたのは40代前後の女性でした。

卑弥呼より100年後の人ですが、宇土には女王的なシャーマンが統治していたとも解釈できますね。その古墳と出土品を見学します。

それから阿蘇ピンク石の採掘現場に行きます。



阿蘇ピンク石の石棺が重要なのは、近畿から数多く出土しているからなのです。

特に継体天皇の墓ではないかと言われる今城塚(いましろづか)古墳にピンク石の石棺があったのは大変な事です。

三つの石棺の内の一つだそうです。

今城塚古墳がさらに重要なのは八女の岩戸山古墳とそっくりな点です。

岩戸山古墳は別区という広場が後円部に付いているのが特徴ですが、この今城塚古墳にもその別区が付いているうえに、設計図が同一なのです。

ただ大きさは今城塚古墳の方がずっと巨大です。

この古墳が継体天皇の墓というのは推測に過ぎません。
戦った者同士の墓が同じ設計だというのは多くの謎を提供します。

で、るな的な考察では、今城塚古墳を継体天皇の墓とする必然性はないのではないかという、また学者の方にクレームをいただきそうな説です。

磐井の乱は「磐井VS継体」と捉えられていますが、実際はちょっと違うのです。

「古事記」では継体天皇は磐井の乱の前に崩御しているのです。
すると、磐井は誰と戦った?
となりますね。

「日本書紀」では継体天皇は磐井の乱の四年後に崩御していることになっていますが、編者は「実際は分からないので百済の書物から類推したから、後の世の人が検討してね」と書いています。

きっと権力者から無理強いされた編者が良心を記したのではないかと思うのです。だって崩御した年が82歳。磐井と戦った年は78歳。ちょっと無理ですよね。

ちなみに「古事記」では崩御した年齢は43歳です。

古事記と日本書紀の差がこれほど大きいのはどちらかが嘘をついているからです。



史料の問題はこれくらいにしておいて、今城塚古墳に話を戻しますが、
もし継体天皇が磐井と戦ったとしても、どうして阿蘇産の九州デザインの石棺に眠りますか?
近くの二上山なんかに良い石材はあるのに。

また、どうして磐井と同じ設計の墓に入りたいと思いますか?

今城塚古墳=継体天皇の墓
では、こんな疑問に答えられません。


継体天皇は磐井と戦う前に死んだ可能性がある。
阿蘇ピンク石に眠りたかったのはホントに継体天皇なのか。

こんな事を考えながら、定説に疑問だらけな私はもう一度現地を見て参りたいと思います。



1 近畿の王たちはピンク石棺を熊本に発注して九州スタイルに彫ってもらって、近畿の王たちや熊本の王たちに下賜した。

2 九州の王たちが近畿に進出した時、故郷の象徴のピンク石棺を持ち込んだ。

皆さんはどう考えますか?


宇土から近畿へ船での輸送の実験が行われたので、その現場のようすを皆さんと歩いて経験してきます。

なお、このピンク石は阿蘇山の9万年前の火砕流で出来たものだそうです。

同じ火砕流が那珂川町では裂田溝(さくたのうなで)の横の轟の丘を形成しました。
奴国の丘では石棺の材料になったり、風化してサラサラの砂になっていましたね。
名島神社では帆柱石になっていました。

神功皇后の旅では上のように、火砕流のいろんな姿を見てきました。

宇土マリーナでは復元された石棺や船を見学して、景行天皇が眺めた御輿来海岸、清少納言が記述した「たはれ島」を眺めながら帰ります。


今日現在、座席が数名分残っているそうです。
一般からも参加できます。4000円です。食事は道の駅にて、各自自由に。

申し込みは「歴史と自然をまもる会」に電話でどうぞ。
                 092-408-7140






20180913





by lunabura | 2018-09-13 21:43 | バスハイク | Comments(8)

宇土半島へのバスハイクの準備中




宇土半島へのバスハイクの準備中




この数日、バスハイクをいくつも平行して計画していますが、
来週は熊本の宇土半島行きです。


ブログで過去記事で紹介していますが、ピンク石の石棺を生み出した現地に行きます。

これらの石棺が関西からいくつも出ているので、まずは基本を学びたいと思います。






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画像はお借りしました。
また、向野田古墳という、女王が眠る石棺もピンク石の舟形石棺。
未盗掘だったので、期待が大きいです。




幸いに、宇土市の文化財課の説明を受けることも出来るということで、有意義な時間が過ごせそうです。





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画像はお借りしました。
宇土半島の北にある御輿来海岸は景行天皇も驚いたという稀有な眺め。

こちらには景行天皇の足跡がいくつも見られます。
その一つですね。







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清少納言ゆかりの「たはれ島」もまた会えます。
この画像は曇りだったんですね。今度はどんな海の色でしょうか。

玄界灘とは違う内海の色が楽しみです










20180911



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by lunabura | 2018-09-11 20:40 | バスハイク | Comments(0)

薄野神社(一ツ目神社)(2)水源と製鉄


薄野神社(一ツ目神社)(2)

水源と製鉄



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境内の裏手には夢のような池。



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クレソンの白い花の咲く流れが、その池に注ぐ。

勾配の少ない川のせせらぎはどこまでも美しい。


この敷地は半円の形で森に囲まれていて、周囲に周回道路がある。
その奥にいざなわれていくと、絶え間なく湧き出す水があふれている。

近くに八大竜王が祀られていた。


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ここを水源として水は流れ出していた。



振り返った。


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小川がお分かりだろうか。
クレソンの道となっている。

ここが敷地の一番高い所。
そして奥に池があり、薄野神社があって、天目一箇命が祀られている。


スコットランドの草原と同じ。
これは五月の写真。
今ごろは草は猛々しく繁茂しているだろうが、スコットランドの夏の草はこの背丈までだった。

植生はほとんど似ていたけど、これ以上は育たない北の地がケルトの地だった。




製鉄には水が沢山要るという。
はてさて、ここではどこが工房だったのだろうか。
帰り道、もう一か所、プールのような四角の池があった。


ここには人工的な川と自然の川の二本が流れていた。



「近年まで製鉄していましたよ。左に洗コウの川があったでしょう」
「え?!!!!!」
見逃した!

数人で戻ってみると、見慣れた段々の疎水しかない。
「これだ」
「え?これが?」


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それは二本の川のうち、人工的な川の方。
単に段々にしてあるだけかと思ったけど、砂鉄を選別する作業場だったんだ。

何と合理的な設計だろう。

馬蹄形になった谷の奥にある水源から水を引いて作業場にする。
そして、中央には自然のままの流れを残す。

馬蹄形?
うん?

馬蹄形に囲まれた傾斜の緩い谷と二本の川。

この美しい「一ツ目水源」を思い出していると、重なり合う光景が心に浮かんでくる。

はたして、同じだろうか。
航空写真を突き合わせてみよう。

(つづく)





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by lunabura | 2014-08-10 21:00 | (サ行)神社 | Comments(4)

薄野神社(一ツ目神社)天目一箇神を祀る宮


薄野神社(一ツ目神社)

天目一箇神を祀る宮


アイラトビカツラがあったのは熊本県山鹿市菊鹿町相良。
その谷を下って山塊を迂回していくと、こんな景色。

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見事な神名備山。
そして、その向こうの丸い山の左の稜線に私の目は釘付け。

見たことのある風景。
そう、スコットランドで、こんなふうに巨岩が立っていたっけ。


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おお、車はどんどん近付いていく。



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ついに正面に回り込み始めた。
これがあの有名な「不動岩」なんだ。
そそり立つランドマークそのもの。

古代、世界のどこからやって来ても、あの岩を見つければ目的地に着く。
こんなに天気がいいのに、かすんでいるのはpm2.5のせい。

さて、この岩からぐるりと西の谷に入っていくと、目的の薄野神社。
天目一箇命を祀る神社に行けるのだ。

かなり迷いながらも、ようやく到着。
山鹿市久原薄野


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思いがけず開けた土地に清浄な空気が流れていた。

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楼門の左右には大臣?が控えている。
そして、右を見た。


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まさしく一ツ目(ひとつまなこ)そのものだった。
ついに来た。
名前だけは聞いている鍛冶の神を祀る宮。



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薄野神社。一ツ目神社。
祭神 天目一箇(あめのまひとつ)命。



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「ほら」
と手渡された石。何だったっけ。炉の壁石だったっけ?
製鉄のあった証拠なんだけど…



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神殿は四方に赤い鳥居がある、珍しい造り。
彫り物も豪奢で、 
「現在の神殿は焼失後、元禄六年(一六九三)二月建立したが再び炎上 安永八年(一七七九)再建。拝殿は天明三年(一七八三)十月、楼門は寛延四年(一七五一)の建立である。」と書いてある、

創立は1500年前。
「今から約千五百年の昔、繼体天皇の四年(五一〇)十一月高天山の神主若山連(むらじ)
の後裔吉田氏が斎き祀ったといい県内屈指の古社である。」

福岡では稲荷神社が多く、このような名前の神社には出会っていない。
しかも、稲荷神社は急な坂を上った小山のピークにあるものが多い。
それに対して、ここは石段一つない、フラットな地形だ。
鉱物が違って、製法が違うのだろうか。

思い出すのは、和水町(なごみ)の江田船山古墳を調べていた時、
熊本では弥生時代に製鉄があっていた、と書かれていたことだ。

当然ながら考古学的には弥生時代の製鉄は否定されている。
しかし、日本全国を調べずに定説が出来たのかもしれない。

阿蘇山の噴火で砂鉄が一メートルも積もった地層もあると小耳にはさんだ。
砂鉄の上で火を焚けば、簡単な鍋らしきものが出来ると真鍋はいう。
中東では焚火をすればガラスが出来るのと同じ理屈だ。

ここは510年の創立ということなら、磐井の君が生きていた時代だ。
磐井の勢力は肥(佐賀~熊本)に及んでいた。
ということはここもまた磐井の勢力下にあったのかもしれない。

境内の由緒書には、さっきの不動岩のことも書かれていた。
伝承によると、往古旧三玉村蒲生の不動岩と旧三岳村彦岳権現が首引きをした時、この地にあってわが子の首引を案じていた母神の目に首引きの大綱の端が当たり、一目をうしなわれたので、その母神を祀って一ツ目神社と称するようになったという。
 また民俗学上では天目一箇神は古代における鍛冶集団の祀るところであるともいう。
 本社を有名にしたのは 寛政のころ(十八世紀)伊勢松坂の本居宣長の門に学び 肥後の国に初めて国学を導入した社司帆足長秋である。
ということは、天目一箇神とは女神なのか。
ここは女神の宮だったのだ。


境内神社として八坂神社(祭神素盞嗚命)熊野座神社(伊弉冊命)木幡神社(天忍穂耳命)稲荷神社(倉稲魂命)天満宮(菅原道真)を祀る。

昭和二十七年新法人切り替えによって久原の本今田・永田・本霊仙に奉祀する菅原神社三社および催合の天神社を飛地境内神社とした。祭神はいづれも菅原道真公である
稲荷神社があった。天満宮も。
道真公を祀る集団はやはり製鉄と切っても切り離せないことが確認できた。

誰か、コメントで道真は九州王朝を再興したかったのではないか、
と書かれていたのを思い出した。

道真の追手は容赦なかったという話を耳にした。
太宰府で亡くなったのではないという話がチラホラ聞かれる昨今だ。

それにしても、この境内は心地いい。
人家が無いからだろうか。
この奥には池があり、泉があった。
(つづく)



教えて!
薄野の読み方は「すすきの」でいいですか?

カテゴリ、とりあえず、「さ」に入れておきます。



薄野神社




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by lunabura | 2014-08-09 23:41 | (サ行)神社 | Comments(0)

アイラトビカズラ



アイラトビカズラ

不思議で、ゆかしい名前のカズラ。
その花は巨大だという。
かつては花が咲けば有事が起こる不穏な花が、今は毎年咲くと聞いた。

しかも、日本では一か所だけ自生しているという。
今では他に二か所見つかっているが、その数は余りに少ない。

太宰府地名研究会主催の「菊池山鹿玉名の神々」のツアーでその花を見ることが出来た。


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この厚い花弁の光沢は熱帯雨林を想像させた。
その香りは蜜を発酵させたような香りで、最初は良い香りと思っても、しばらくすると気分が悪くなっていく。
その香りは今でも思い出せる。

虫たちに最高のごちそうを提供するために、発酵という手段を選んだのか。
腐らない知恵なのだ。
そう思ったが、これは虫媒花ではなく、風媒花だとwikiには書いてあった。

このような密林の状態で風を利用する花なのだろうか。
印象と違うので違和感を持った。
Wikiにはさらに
「中国の長江流域が原産地とされ、日本にも広く分布していたとされるが国内では2カ所を除き絶滅」とあった。

類まれな花を見ることが出来た。




しかし、九州の古代史を明らかにしつつある地名研究会の案内なのだ。
着眼点は花ではなく、蔓(つる)だった。

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そう、筏(いかだ)のロープ。
前回、安曇族の島・相島(あいのしま)で見た「ユヅカツラ」が丸太にふさわしい木材だとすると、それを結び付けるロープが必要だ。

それがこのカズラではないかという話なのだ。
先程紹介した、石で出来た竜蛇「石づち」が境内にある久米八幡宮の吉田宮司の着眼で、

「凡そ、二千数百年前、呉越同舟の呉が亡んだ前後、呉王夫差の一族が列島に亡命し、有明海から熊襲の領域に入ってきたと考えられ、その際、大木で筏を組んだとすれば、その素材がアイラトビカズラだったのではないか?」といった提案を行われました。
(久留米地名研 古川清久)
ということでそのカズラを実見しに来たのだ。

呉なら志賀島の安曇族も呉の末裔だと言っていた。
安曇族は中国語を理解し、漢字も知っていた。

中国の長江付近を原産地とするカズラは
人の手によって日本にもたらされたと考えるのが理にかなっている。

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉,勾吳。

これはwikiから。

筏なら絶対沈まない。

「無人島に一つだけ持っていくとしたら何を持っていくか」
という問題を考えて、私なら「種」だと思ったことがある。
「種」こそ命をつないでくれる。

アイラトビカズラの種を持って来て筏に乗った人たちがいると考えるのは合理的だ。
しかし、思う。
挿し木できるんじゃないか。
一時期「幸福の木」がはやった。
段ボールの中に十センチ程度の長さの枝が入っていた。
それに土と水を与えれば育った。
ハワイのお土産にそんな「枝」や「種」を貰ったりした。

殆どの木が挿し木が出来る。
私が呉人なら、何種類もの木を腐葉土の入った壺に入れて、抱えて乗り込むかも知れない。

ロープの材料、丸太の材料、蚕の食料、竹のあれこれ、稲、あわ、ひえ…。

欲張りだから、かなり重い目にあっただろうな…。
そんなことを考えた。


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樹齢千年。


熊本県山鹿市菊鹿町相良




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by lunabura | 2014-07-22 21:28 | 相島 | Comments(6)

久米八幡宮・石づちは白い竜


久米八幡宮(くめ)

石鎚(いしづち)は白い竜
 


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熊本県の菊池市。
阿蘇山の北西部に久米八幡宮はあります。


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御祭神は品陀和気命(ほむだわけのみこと)。(応神天皇)
健磐龍命(たけいわたつのみこと)
武内宿禰命。
住吉神(底筒男命・中筒男命)

この境内の左手に不思議な石積があります。菊地遺産の説明板がありました。
石鎚(いしづち)
説明
久米八幡宮の境内地には、石鎚(いちづち)という呼び名の総延長が、約40mの石群がある。用途や目的は、不明な点が多いため、西南戦争の陣地跡とも、屋敷の石塁とも言われ、諸説あるが、昔からイノシシやシカよけの柵と伝えられている。

(菊池遺産 第ふるさとH21-8号)



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庭の造作のように見える石積みです。


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これは反対側の奥の方。
ここでは三段になっていますが、一番上の石積みは延々と続いています。
写真の中央部の木の根元がスタート地点です。


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手前から、くねくねと曲がって、全体では半円を描いています。


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ここまで来ると、蛇の蛇行を連想させます。



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蛇の胴体から足が左右に出ています。



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灰色の石の峰に当たる部分には白い石が置かれていて、雨が降るとベージュ色に近い白い姿になるそうです。
いかにも蛇のウロコを連想させます。

そして、背中には突起上に石が立てられていて、かつてはいくつもあったのが、
今はこの石が残っているだけらしいです。
つまり、この足のある蛇はは背中にトゲがあるのです。



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そして、ここが最終地点。しっぽが二股になっているように見えます。
宮司の話によると、かつてはまだ先の方にも続いていた可能性があるとのこと。
そうすると、片方は足かもしれません。


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そして、再びスタート地点に戻ってきました。
立石の信仰があるようです。紅白の幣の向こうにあるのは甕です。


かつての戦争で、陣地にされたことがあって、かなり破壊されたようです。
また、この半円に対応するもう一つの半円が存在していた可能性を示すように
石が散乱しているそうですが形は消滅しています。

そうすると、双竜が左右から向かい合って円を描くようなデザインだったのかも知れません。

神殿の真下に何かあったのではないかという話もありました。

使われた白い石はず山の方に行かないと採れないそうです。
確固たる強い意志がないと、これほどの物を作ることができませんね。

これを見た時は、古代中国の、夏(か)か殷(いん)で発掘された地上の竜を思い出しました。
竜をトーテムとすることの出来る身分の一族が来たのだろうか、なんて想像しました。

何せ、ここは熊本。
中国大陸から、ダイレクトに船が入ってくる地域です。

石で造られ、くねりながら足を持ち、トゲのある竜。しかも、しっぽが二つ。

そのあと、同じキーワードでくくれる福岡県新宮町の相島の長井浜の石塁を見てから、
海洋民族の作ったものかも知れないなとも思ったりしたのでした。

当宮は八幡神が上書きされるまえに、古代文明の聖地だったのでしょう。
「久米」からは「安曇目」を思い出させます。

これを見た後だったので、相島の積石塚の石塁も石竜ではないかと思ったのでした。


久米八幡宮 熊本県菊池市泗水町豊水557





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by lunabura | 2014-07-10 21:16 | 相島 | Comments(0)

トンカラリンはやっぱり不思議


トンカラリンはやっぱり不思議

前回の江田船山古墳と同じ丘陵にトンカラリン遺跡があります。
(古墳と遺跡の間に県道が通っているので、別の丘陵にみえますが)

県道から急坂を車で上り、「どこかな~」と言う頃に小さな案内板。
二股になって、「どっちかな~」と思うと左手に遠慮がちな案内板。

下って行くと説明板があったので、「ここに止めていいかな~」と言いながら
止めてみたら駐車場でした。

そこから、どこにあるのかキョロキョロすると、家の壁に手作りの「トンカラリン」の矢印。
「あった、あった。みなさん、こっちですよ~」

一緒に行った二人は二度目でしたが、それでも「どこかな~」と言いながら辿り着きました。
このブログ見て、見学に行く方、迷いそうでちょっと心配。

でも、現地はとても整備されていましたよ。  



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なにこれ?
いきなり怪しげなトンネル。とても狭くて覗き込むと石段。
な、なんでここに石段?


奥には光が見えています。
小学生向きのサイズ。
入るのは、ためらって、スルー。




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その先、こんな階段が幾つもあって、右手の方に遺跡がずっと続きます。
トンネルがあったり、露天になったり。

ガイドがいないと、どれが遺跡が分からなかったな。
  



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「あ、あれですか」
穴をめっけ。
「入りますか?」
「もちろん!」
トンネルを避けて歩くIさんに、厚かましく「護衛に一緒に入ってください」とお願い。

ネットで予習していたけど、
「汚れていい恰好で」と書かれていたのを忘れていた。
まさか、トンカラリンに行けるとは思っていなかったので、今日は珍しくヒール。


でも行く!
テンションは高め。迷いはない。汚れそうになったら戻ればいい。
立って歩けます。



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床はこんな感じ。





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天井は石の蓋!

懐中電灯がないと真っ暗です。
携帯のライトを点けたけど、光は足元までは届きません。
奥の方は岩がゴロゴロしていました。


トンネルはすぐに終わりましたが、またさらに大きなトンネル。






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出た所。


さらにトンネル。
しかし細すぎて、ついに体が通らない。
ここで断念。


「るなさん、どう思う」
「掘っていった感じがする。鉱脈を掘り進めて行った趾かな。
足元にキラキラする白い砂がありましたよ。香春岳と同じ真っ白な石」

これ以上はさすがのるな探偵もお手上げ。





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帰り道、民家の石積みが独特。長い石を横に並べている。
あとで、石切り場があるという情報も入って来ました。


「もういいですか」とIさん。時間が迫っています。
「はい。この手の泥んこ探査はくるま座さんに任せましょう」






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案内板を見ると、三分の一も見ていなかった。
イラストを見る限り、下の方はいかにも作業場っぽい。
でも、祈りの気配もある遺跡だった。

上の方には神社があり、磐座のある山も見える。
組み合わせて、総合で探査するべき遺跡だろう。

神社の神さまの名前がヒントになりそうだと思って調べると、
鶯原神社は菅原神社とも言い、道真公が祀ってあるという。

ああ、それなら、やはり鉱山に関係あるかな。

ネットは便利。
かむろ山を調べると登山記録も出てくる。
頂上には石祠があって「彦嶽社」の石碑。磐座は記録なし。


20分の訪問でしたが、とても楽しかった。

我こそはと思う方、懐中電灯と軍手、ズック必携 (・_・)

以上、謎のトンカラリンでした。^^









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by lunabura | 2014-05-07 19:00 | <遺跡・史跡> | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25