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ひもろぎ逍遥

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「くまもと」とは観星台 


「くまもと」とは観星台 
京都の門の開閉時間の基準は熊本にあった


今日は「くまもと」という言葉が星の観測に関連ある言葉だという一文を
見つけたので、書き写します。
例の眞鍋大覺です。囲みの中はスルーして大丈夫です。

 
<天官は終夜の観測と事としていた。全天を隈なく見わたすところから、察するに宣命暦が公布された清和帝貞観3(861)年あたりの古語かと思われるが、観星台のことを隈本とよんでいた。

 「くま」はただちに近東の神話に出てくる斗極の熊の物語を思い浮べるのであるが、祖先は宇宙空間を九間(くま)と書いていた。

「くまもと」とは「くまのむち」即ち、天文観測の長者達人を言い、又「くまのまる」即ち天文台観星台の略でもあったかと思われる。

 九間とは八方と玄天、即ち八方の中心なる北辰の座のことであった。
  韓愈(かんゆ)(786~824)の作詩の一節に
   一封朝(あした)に奏す 九重の天
   夕に潮陽に貶(へん)せらるる路八千
は、まさに九間の言葉をよく表現している。

天官は星座をすべて暗誦して星位のみならず、新星の発見と動向には細心の注意をおこたることがなかった。「歳月人を待たず」の諺そのもののごとく、一寸の光陰に時のたつを賭けて一生を果したのであった。>
『儺の国の星拾遺』p173


<全天は水平線から天頂までが九尺となり、これが唐代(618~975)の詩文に出る九重天(きゅうちょうてん)の由来となる。>
『儺の国の星拾遺』p70 58磯城星 ヘルクレス座α(64)ラス アルゲーチ

今回注目したい内容をまとめましょう。

天官は一晩中星の観測をしていたのですが、
全天を「隈」なく観測していたことから、観星台を「隈本」と呼びました。
その「くま」とは「九間」と書きます。
北極星を中心に八方を描き、北極星+八方=九間と捉えていました。

また「九重の天」とは全天を水平線から天頂までを九尺としたということです。
地球儀に緯度と経度のラインを引きますが、
宇宙空間の場合は、北極星を中心として縦と横のラインと、
天頂を中心としたラインを想定していたわけですね。

それが「九間」と「九重」という言葉の由来だということになります。
「くまもと」とは天文観測の長者達人を言い、
「くまのまる」とは天文観星台の略ではないかと真鍋は言います。
「まる」って星の意味ですもんね。

「くま」の語源は普通、道や川の曲がりくねって入り組んだ所としますが、
これと合致しない地形もあり、
新たに天文観測所のあった地形を考慮すると上手く地名が説明できるかもしれません。

それにしても、クマモトとか、九重とか、熊本の地名と重なりますよね。

そこで思い出したのが、2014年の久留米大学公開講座での福山裕夫氏の発表です。

メモしかないのですが、
京都の門の開閉時刻は日の出と日の入に合わせられているのですが、
実際の時刻を調べたところ、京都の日の出日の入の時刻とは合っていないそうです。

これは、他の所で観測した日の出日の入の時刻を採用しているということになります。

そこで、基準となる緯度経度を調べると、
「熊本の玉名」付近辺りの観測値が当てはまるというのです。

その地に天文観測官がいて、正確な観測をしていたということになります。
そして、そのデータを京都では利用していたのです。

熊本に「隈本」がいた ( ´艸`)

絞り込むと玉名にいた。
神社とか丹念に調べていくと、天文観測所が見つかるかも知れませんね。
地名とか、地形とかが手掛かりです。
この近辺には安曇が入植したという話があります。

志賀海神社の遥拝所とか、香椎宮の古宮を把握して
安曇族の膳部の観測基準が明確になれば、
玉名との比較も可能になりますね。

ということで、追跡調査はTatsuさんに期待したいと思います。^^
(あいかわらず注文の多いブログです)

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玉名大神宮
ここには景行天皇がやって来た

<20150109>





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by lunabura | 2019-01-20 21:39 | <地名の由来> | Comments(4)

ゾロアスター教(4)本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れた


ゾロアスター教(4)

本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れた



画像出典 ウィキペディア
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これはゾロアスター教の守護霊 ブラワヴァシ。
「輪っか」持ってます。



ゾロアスター(2)で紹介した画像の上、左右の人の上にブラワヴァシが描かれていました。
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それぞれに守護霊がいるということでしょうね。

ブラワヴァシは盂蘭盆(うらぼん)に変化したそうです。
仏教語もインドから来たので、ルーツを辿っていくと
中東文明に行き当たるのも当然ちゃ、当然でしょう。

だんだん純粋な日本語は何なのか分からなくなってきました。(^_^;)




さて、ゾロアスターシリーズの真鍋の最後の文です。

< 本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れ、天平の頃は穴師(あなし)あるいは賀名生(あのう)と呼ばれ、溶鉄錬金の橐師(たくし)工人の氏族の別名となった。炉の火口(ほくち)の色がまさに火星そのものの遠見(とおけん)であった。

ここに「あなしぼし」が約されて「のちのほし」に生れ変る歴史がいきていたのである。(※橐=ふいご)『儺の国の星』143>

日本に入って来ると、大地の火の神は穴遅と呼ばれ、
熔鉄錬金のフイゴの工人の氏族の別名となったといいます。

のちに、「天平の頃は穴師、賀名生と呼ばれた。」とあるので、賀名生を検索すると、
奈良県吉野にある地名で、元は「穴生」と書いたとあります。

吉野の穴で思い出すのは、イワレビコの東征で出会う不思議な人たちです。
イワレビコはのちに神武天皇となります。(日本書紀から、るな訳)

<イワレビコの命は教えの通りに、八咫烏の後から行軍し、吉野河の川尻に着いたとき、梁(やな、竹の仕掛け)を伏せて、魚を取っている人がいた。
そこで、イワレビコの命は「そなたは誰か。」と尋ねると、「私は国つ神、名はニヘモツの子と言います。」と答えました。(これはアダの鵜飼の祖である。)

そこからさらに進むと、尻尾がある人が井戸から出て来ました。その井戸に光が有りました。そこで、「そなたは誰か。」と尋ねると、「私めは国つ神、名はイヒカと言います。」と答えました。(これは吉野首らの祖である。)

そこでその山の中に入って行くと、また尻尾がある人に会いました。この人は岩を押し分けて出て来ました。そこで、「そなたは誰か。」と尋ねると、「私めは国つ神、名はイワオシワクの子と言います。今、天つ神の御子が来られたと聞いたので、御迎えに来ました。」と答えました。(これは吉野の国巣の祖。)>


井戸から尻尾がある人が出てきました。国津神の「イヒカ」です。
井戸は「穴」と言い換えてもいいですね。
尻尾とは腰に下げた毛皮で、井戸とは坑道ではないかと考えています。
国津神とは光を灯しながら鉱物を掘る人たちのことではないでしょうか。

次に会った尻尾が在る人は岩を押し分けて出てきますが、
この人は「吉野の国巣の祖」と書いてあります。
国巣(くにす・くず)は石を組む人たちでしたね。
湊の石組(磯城・しき)を作ったり、古墳を作ったりしました。

この章は、神武天皇が入る前に、すでに鉱山や磯城を作る人たちが
入植していて、国津神と呼ばれていたことを示していると私は解釈しています。

この中の溶鉄錬金の工人を穴遅(あなむち)、穴師(あなし)、賀名生(あのう)
と呼んだことになります。

筑紫で言えば羽白熊鷲がその代表かな。

その「あのう」を変換すると「安納、安濃、穴太、阿納」と出てきました。
「あのお」を変換すると「穴生、穴太」。

共通する「穴太」を検索すると「石工衆」と出てきます。

<穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。(ウィキペディア)>

この穴太衆は熊本の石橋なども造ったという話をIさんから聞いたばかりだったので、
驚きました。(*_*;
こんな所でもシンクロ?!
つまり、「穴太」に注目しなさいってこと。(^_^;)

穴太衆がもともと古墳築造を行っていた石工の末裔なら、
さらに昔は国栖(くず)氏だったのではないでしょうか。
先程書いたように、国栖は湊の石を組むのが巧みで、
のちには大王の古墳も造ったと真鍋はいいます。

彼らは古墳の石室の築造を担当したのではないでしょうか。
土を盛るのは土師(はじ)氏です。

この二氏の組み合わせは、鉱山でも力を発揮します。
穴を掘る人たちと、穴を補強する人たちです。
これに加えて、堀った土から錬金する人たち。それが穴遅。

「穴遅」に「大」がつけば「大穴遅」。「おおなむち」です。
大己貴は宗像三女神の姉姫二人と結婚しましたね。
三神の新婚の住まいは?
英彦山の北嶽!

大己貴が訪れたという老松神社は飯塚市の出雲の近く。
そこの土師氏は菅原道真公が太宰府に左遷された時、援助した人たち。
道真公は土師氏。

何度も、この考察を繰り返し書いてしまいます。

古出雲のエリアは遠賀(おんが)川の上流から下流にかけて。
そして玄界灘の福津市津屋崎方面まで。

オンガさま、オオガさまとは大己貴という思いがさらに強くなりました。

遠賀川と玄界灘の連結点に熊鰐(くまわに)がいます。
熊鰐は大国主命と少彦名命を祀る氏族。そして、神武天皇の末裔でもある。
出雲と天皇家の連結点でもある。

八幡東区の仲宿神社にその熊鰐の館がありました。
熊鰐はイワレヒコの磐境神籬を守り続けました。(一宮神社参照)
神功皇后はそこに何度か訪れたことから、その地名は皇后崎(こうがさき)となりました。

その近くには穴生、鉄竜、鉄王などの地名が連なります。
そこに陣営を張ったのが武内宿禰で、旗頭(はたがしら)神社となりました。

むむ。解けますな。
そこは古出雲の中でも、最先端の地域だったのでしょう。
武内宿禰が守ったのはもちろん神功皇后だけど、
あの地点を選んだのは、鉄がらみですね。


今週の14日(土曜日)は神功皇后がその熊鰐を祝福して祈った
豊山八幡神社の隣でお話会なのです。
御縁を感じます^^

遥か遠いゾロアスター教の大地の神は日本に来て穴遅となった。
その始まりは遠賀川から玄界灘にかけての古出雲ではないか。
その末裔が熊鰐一族。

やっぱり今日もこの結論になってしまいました。(^_^;)




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by lunabura | 2019-01-17 19:00 | 真鍋大覚ノート | Comments(4)

ゾロアスター教(3)「大地の神」エンキ 「天の神」マツダ ラ―


ゾロアスター教(3)

大地の神 エンキ 天の神 マツダ ラ―

マグマが石油の地層を押し上げ、蒸気となり、太陽の熱が火をつけたとき、
人々は神の怒りをそこに見ました。

<大地の神の怒気が地上の人間の悪業を焼きつくす前兆がこの聖火であった。大陸では燎原の炎と恐れ、人間の力ではもはや御する能わざる炎としたのである。

大地の底なる神は、炎帝、閻魔さらに遠く近東では厄鬼と恐れた。いずれも五千年昔のEnkhiエンキの音訳であった。『儺の国の星』143>

大地を焼く神はその地下にいる。それをエン帝、エンマ、ヤッキと恐れたが、
それはもともとエンキから派生した言葉だといいます。

画像出典 ウィキペディア
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エンキです。


以下はウィキペディアから。
エンキ
エンキの正確な意味は不明であるものの、一般的には「地の王(Lord of the Earth)」を表す(シュメール語でenは「王」、kiは、不明もしくは「盛り土、小山(mound)」の意)。>


シュメール語が発音を留めながら変化して中国では炎帝、閻魔と変化していきます。

次は「炎帝」について、百科事典マイペディアから。

<炎帝【えんてい】
中国の伝説的な帝王。姜(きょう)姓の祖。神農と習合して炎帝神農氏と呼ばれ,火,竈(かまど),太陽などに関係づけられる。 >

火のイメージから太陽とも関連づけられたといいます。


エンキとエンリル。アヌンナキ。二ビル。マルドゥク。
古代シュメールの神々。
昔、この話をエハン・デラヴィから何度か聞きました。

粘土板に書かれた文字を解読した結果、宇宙規模の壮大な話が現れましたが、
それは私たち人類の起源、知恵と陰謀に関わるものでした。

もともと、地球外生命体、エンキとエンリルの兄弟が人類に対して
一方は奴隷化をもくろみ、一方は知恵を授けたため、
人類の支配者と非支配者層を生み出した。
そんなストーリーだったと思います。

粘土板はヨーロッパに船で輸送されるとき、
適当に箱詰めされたので、到着した時は、かなりのものが壊れたと聞きます。

本来は学術的に翻訳されるレベルのものらしいですが、
日本では「ムー」の方で発表されたので、
トンデモのジャンルで扱われるようになったと聞きます。

その名を真鍋から聞くとはびっくり。真鍋の知識は何処まで深いのでしょうか。

大地の神、エンキ。
そしてそれに劫火を点ずる天の神はマツダやラ―であったと真鍋はいいます。

 <聖火は大地の神の憤激がおさまると消える。この期間は七日であった。ここに七曜の発祥が存在するのである。石油の湯気に劫火を点ずる天の神がMazdaマツダであった。

エジプトではRahラーであった。天と地が合わせて火を注ぐ時が、人間を永久に見放す時であった。A.Dante(1265~1321)描くところの神曲の修羅の光景がそれである。『儺の国の星』144>

マツダは「アフラ・マズダー」と言います。「アフラ」は「阿修羅」と変化したそうです。

引用文の、ダンテの神曲の「修羅の光景」という言葉にも、
分かる人には分かるように書かれているのでしょう。



「マツダ」MAZDAは、自動車会社にも付けられていますね。ウィキペディアアによると、

<「かつてのゼネラル・エレクトリックの電球のブランドだったマツダランプ
(日本では提携先の東芝の製品が名乗った)、自動車メーカーのマツダの綴り「MAZDA」は
ここから取ったといわれている。」>

とあるので、電球を手に入れた人間の喜びが火の神の名を付けさせ、それが日本のマツダに受け継がれたようです。


画像出典 ウィキペディア
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右がアフラ・マツダー。王権の象徴を渡すシーンです。

馬は鞍も鐙(あぶみ)もついていないですね。
(「馬具が出土しないから馬はいない」という理論は当てはまらない証拠)

王権の象徴は「輪っか」です。これって、「璧」(へき)に似てません?

画像出典 ウィキペディア
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マツダの渡す王権のシンボル「輪」は中国皇帝の王権のシンボル「璧」となった‥
なんて、誰か論文を書いてくれてないかな。^^



マツダはエジプトではラ―と呼ばれました。

画像出典 ウィキペディア
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これはラ―。

<ラーはハヤブサの頭をもつ姿で描かれることが多い。(略)セクメトはラーが人間を滅ぼすためにその目から生み出されたとされる。ラーを象徴する元素と色はそれぞれ火と赤。(ウィキペディア)>

「地の神」と「天の神」は人間の業が極まった時、
総てを焼きつくす劫火となって人類を滅ぼすというのです。

砂漠の世界に憎しみと悲しみの連鎖が始まった今、
人間の知恵で灌漑用水と緑がもたらされ、
人々が植物を育てる喜びに満たされるよう、祈らずにはいられません。





20150208


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by lunabura | 2019-01-16 21:35 | 真鍋大覚ノート | Comments(2)

ゾロアスター教(2)天変地異を知らせる聖なる火


ゾロアスター教(2)

天変地異を知らせる聖なる火

<拝火教はZoroasterゾロアスター(前660~538)に始まり、Maniマニ(215~277)によって再興された西域の信仰であって、青は草木、赤は火焔に対応させた。>

これは前回の最後の一文です。
ゾロアスターは紀元前660年生まれ。日本なら縄文から弥生へ移行する時期。
マニは215年生まれ。日本では弥生時代末期、神功皇后や卑弥呼の時代。

ゾロアスターとマニの関係に関して、ウィキぺディアを見ると、
ゾロアスター教はマニに影響を与えた一つと考えられているようで、
真鍋のいう、ゾロアスター教の「再興」とはニュアンスが違っています。

そして、前回の記事に「月氏が宮殿や霊廟の装い」で華厳の寺院を彩ったというので、
華厳を調べてみましたが、「華厳経」という言葉しか見当たりません。

「華厳経」はアヴァタンサカ・スートラと言い、3世紀頃に中央アジア(西域)で
まとめられたもの、とありました。
ですから、マニとほぼ同時代のものとなります。

聖なる色は「赤と青」のうち、青が草木の緑に変化したので、「赤と緑」という組み合わせになり、
寺院を飾る色となったことになります。
画像出典 http://www.yunphoto.net/jp/photobase/yp13944.html

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月氏の建築の装いとはこのような配色を表しています。



次はゾロアスター教の画像です。

画像出典http://shinsengumi3.seesaa.net/article/144960592.html
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右の黄金のオーラに輝く人がゾロアスターです。白い衣装が特徴です。
中央には火が焚かれています。これが拝火教のシンボルです。

真鍋の文を読みましょう。
<拝火教は、元来は砂漠の中に現れる自然発火や蜃気楼をみて、天地の安穏を祈る信仰であった。

夢幻のごとき描写を砂上の楼閣というのは、時ならぬオアシスの蒸気の噴出が空中に無人境の彼方の部落を映し出す光景であって、その気配を一目見て、天地の異変を吠えたてる犬を従者に侍らしていた。

神社の高麗狗(こまいぬ)の石像の発祥と、華厳の寺院の建立が時を同じくする所以である。
『儺の国の星』142>

拝火教の火は単なる焚火ではなく、砂漠の中の石油の自然発火によるもので、その蒸気などから天変地異を察した。だから拝火教はそれが無事であるように祈る信仰だと真鍋は言います。

テレビで砂漠に滲み出た石油が燃えている映像を見たことがあります。
大地が直接燃えている印象です。
また、中東の洞窟の中に実際に入ったことのある絵里さんは、人々が石油の炎に祈りを捧げているのを目撃したと教えてくれました。

「砂漠の火」と「天地の異変」がどう関わるのか、さらに真鍋の説明がありました。
<大地の岩漿が沸騰し始めると、その上にある石油の地層は、激しい噴気を高熱高圧をもって砂漠の砂礫の間から地上にあふれさせる。

これに日中の直射、すでにオアシスまで昇華させる熱気が瞬間に引火させて昼夜の別なく燃え続ける。

近東の民族はこれを聖火と拝し、天地の潰滅がいささかでも多からぬことを大地にひれふして必死で祈ったのである。『儺の国の星』143>

石油が地上にあふれ出すのは地下の岩漿、即ちマグマが沸騰し始めた影響だといいます。
その後には大地震や噴火が起こる恐れがあるのを経験的に知っていたので、
近東の民は大地にひれふして祈るというのです。

<これが拝火教で、唐代には祆教(けんきょう)として、光仁帝(七八一年)に長安の都にまでおよんだ古代民族の信仰であった。>


拝火教は善悪二元論で説明されているようですが、
大地に燃えだす火を天変地異の前兆として畏れる信仰がもともとの姿だと伺えます。

(つづく)

20150205



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by lunabura | 2019-01-15 17:50 | 真鍋大覚ノート | Comments(2)

ゾロアスター教(1)聖なる色「青と赤」



ゾロアスター教(1)
聖なる色「青と赤」

ゾロアスター教については「火星」の章に書いてあります。

拝火教。
真鍋の、それを語る感性に目を見開きながらも、心は遠い歴史の地層を辿っていきます。

今回は聖なる色「青と赤」です。

<西域の民族は、天を青、地を赤で表現した。蒼穹と砂漠の色彩である。人間は天地の間にあって、その生命を永久に伝える存在である。

女人の衣装に赤と青の聖色を配した発祥がここにある。

やがてこの信仰は拝火教によって東方に移り、月氏の民族によって宮殿や霊廟の装いに遷った。華厳の寺院がこれであり、白鳳天平の時代に成る大和の堂塔がこれである。

万葉集巻三 小野老(をののおゆ)(六九七~七三二)
 あをによし 寧楽の京師は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり
        (ならのみやこは)    (にほふがごとく)

「なり」は皇妃の古語であり、青丹(あをに)は女性母胎の象徴であり、後には衣袴(いこ)の詞になっていたから、奈良の大路を往き交う女官のあでやかな姿を謳った歌ということになる。

拝火教はZoroasterゾロアスター(前660~538)に始まり、Maniマニ(215~277)によって再興された西域の信仰であって、青は草木、赤は火焔に対応させた。>

「青と赤」それは「天と地」の色で、西域の人はそれを「聖なる色」としたといいます。
「天と地の間」で「生命を永久に伝える存在」。
それが人間。


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画像出典
Desert and Dunes, Venezuela | Flickr – Photo Sharing!
この一文は中東の砂漠を生きる意味を深く考えさせます。
その過酷な環境に生まれたら、きっと今より深く「生きる」意味を考えることでしょう。




この「天と地」の「青と赤」を「女人の衣装」に配したといいますが、
「聖色」という言葉から「聖母マリアの色」を暗示していると思われます。



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マリア像 画像出典
http://www.art-library.com/bible/attribute-virgin-mary.html
聖母マリアは青いマントで描かれます。そして衣は赤。
青は天の真実、赤は神の慈愛を象徴します。
白いスカーフは純潔を表します。
これは、お決まりなんですね。

そこには天を青、地を赤とする、砂漠で生まれた思想が反映しているということになります。

聖なる青と赤は、紀元前の拝火教では「草木と火焔」のシンボルとなり、
紀元後のキリスト教では聖母のシンボルに取り入れられ、やがて東に広がり、
月氏によって白鳳天平時代に建築様式として日本にもたらされたということになります。


月氏。
それは平群氏と蘇我氏でした。


<筑紫で孝元帝(前214~158)から清寧帝(480~484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平群氏が百済人をここに租界させた。>
『儺の国の星拾遺』p244



<「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。
和名鈔には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。>
『儺の国の星拾遺』p245


平群氏は弥生時代から古墳時代にかけて玄界灘の交易を掌握していたといいますから、
「聖なる色」は一度だけではなく、時代の変化に応じながら、
何度も日本に届けられたことになります。

あの万葉歌「あをによし」は都の建築の色彩を謳ったものと学びましたが、
真鍋は、あでやかに歩く女官たちの姿をも重ね合わせたものだと
伝えたかったのですね。

あをによし 寧楽の京師は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり
(青丹よし ならのみやこは さくはなの にほうがごとく いまさかりなり)

想像の中に新たに美しい衣が翻り、笑いさざめく声が加わりました。

20150203

(つづく)

◆これまで引用文を□で囲んでいたのですが、新しいテンプレートにはその機能がついていませんでした。ですから、引用部分が不明瞭になりました。そこで、過去記事を読み返しながら、引用文を< >で囲む作業をします。
カテゴリも増えすぎて並べ替えが出来ないので、整理したいと思います。
真鍋大覚の記事に関して、出来るだけ「真鍋大覚ノート」にまとめて行こうと思います。
「星」や「地名」などは先々、考えます。
20190113



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by lunabura | 2019-01-13 21:29 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

老司式瓦と「老司、野多目」の語源




老司式瓦と「老司、野多目」の語源



古代瓦が古代史の論点の一つに挙げられていますが、さっぱり分かりません。

で、西日本新聞に小田富士雄さんの聞き書きシリーズが掲載されているのですが、昨日(20181119)の記事に分かりやすい説明がありました。

これによると、大宰府政庁など九州にあった古代官衙(かんが・役所)や寺に使われた瓦の型式に、「老司式」(ろうじしき)と「鴻臚館式」(こうろかんしき)の二種類があるそうです。

老司は地名です。鴻臚館は古代の迎賓館的な所。

これを命名したのが小田富士雄さんで、老司式の特徴は唐草文様のデザインが片流れになっていて、三角形のギザギザの鋸歯(きょし・のこぎり形)の文様が付いているのだそうです。

これに対して、鴻臚館式は唐草文様が中心から左右対称になり、鋸歯紋が無いそう。

これで分かりました!







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この画像を見ると、ギザギザがあり、唐草文様が流れているので老司式と分かります。
画像は老司公民館からお借りしました。



で、「老司」という地名について。


今日もまた偶然ですが、これを読んだあと、たまたま広げたページに「老司」の語源を書いた文章が出て来たのです(笑)

真鍋大覚の「那珂川の地名考」72です。

〈太宰府は武内宿禰が神功皇后23(223)年に異邦人の筑紫への入国、筑紫からの出国を掌握する官衙を設置したに始まる。〉

と驚く事を書いていますが、その大宰府が発展すると皿や壺などの陶器の需要が増し、窯元はその原料確保に奔走したそうです。


粘土の多い泥の底には赤土が沈殿していて、塩分を多量に含んでいるので、陶器の材料に適し、素焼きでも釉(うわぐすり)がいらない壺が出来たそうです。

この土を「に」と言い、土買いを「にかひ」と言い、新治(にかい)と書いたそうです。

こうして、塩分を含んでいるため需要が無かった土地の子孫が一躍、千万長者になったとか。

神話に出てくる塩土翁とは塩田、塩原を経営していた神で、それ以外に赤土の採掘権を保有する神でもあったとか。

これを万葉の頃には盧人(ろじ)と呼び、それが老司(ろうじ)に変化したそうです。

赤土は川が蛇行する所に堆積し、ここで土取りを深くしていくと水が溜まって仕事がはかどらなくなるため、川の水路をまっすぐにして水を流します。これが「野多目」だそうです。地名がありますね。


老司では良質の赤土が採れ、そこで瓦を作ったのですね。
そのデザインが老司式と呼ばれるようになった訳です。

これで、瓦の事が一つ理解できました♪



20181120 真鍋ノート

福岡市南区老司   野多目


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by lunabura | 2018-11-20 20:11 | <地名の由来> | Comments(0)

明日は予定通りです



明日は予定通りです。


思いがけず大きな災害が続いています。
私の住む地域は雨も少なく、普段通りの生活をしています。

歴史カフェの会場の福津市も問題ないので、明日は予定通り開催します。

交通機関や高速など、まだ整っていないようなので、
どうぞ気を付けてお越しください。

また、来れない状況だったら、無理せずにキャンセルしてくださいね。

会場の席は十分にあるので、あらたに参加希望の方は飛び込みOKです。

内容としては、六嶽神社に加え、
ソティス、イシス、ナイルの星など、
エジプト関連の事も整理していきます。

エジプトのイシス神殿はシリウスの光が差し込むようになっていた、
など、思いがけない話も野尻さんの本に見つけました。

明日はエジプトの画像も少々あります。


会場は二階の視聴覚室です。1:30から入室できます。

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歴史カフェ福津
7月8日(日)第19回 2時~4時
シリウス 真鍋大覚の世界 ー倭人の暮らしと渡来の記憶ー
六嶽神社 真鍋大覚のシリウス完全版
詳細はコチラ
申し込みはコチラへ
①氏名(フリガナ)②住所(市町村字)③708福津希望

歴史カフェ小城
7月14日(土)第4回 3時~5時
1部:綾部八幡神社 糸島で亡くなった来目皇子と綾部一族と旗占い
2部:神功皇后の伝承 久留米~
申し込みはコチラへ
もしくは小城鍋島家Tenへ電話で
①氏名(フリガナ)②住所(市町村字)③714小城希望
会場:小城鍋島家Ten

歴史と自然をまもる会
HPはコチラ
バスハイクの旧記事はコチラ
申し込みは 092-408-7140(火曜~金曜)
7月12日(木)9:00 皇后の出産 糟屋の里
詳細はコチラ
満席です
8月2日(木)8:30  安心院 
神武天皇と水沼族の足跡と謎の巨石群を訪ねて








by lunabura | 2018-07-07 20:58 | 歴史カフェ | Comments(1)

第19回 歴史カフェ福津「シリウス」のご案内


第19回 歴史カフェ福津

「シリウス」のご案内



来月7月8日の歴史カフェ福津のご案内です。

今回のテーマは「シリウス」です。

タイトルは

シリウス 真鍋大覚の世界 ー倭人の暮らしと渡来の記憶ー


真鍋大覚が二冊の本に記録しているシリウスに関する記述をすべて網羅しました。

それを分類していくと、寒い真冬に輝くシリウスの名が
倭人の暮らしに即していくつもつけられていることが分かります。
「ふゆしらす」「からすき星」「よどの星」などなど。

人々はシリウスを観測して天候の変化や増水、津波、あるいは地震や噴火などを予測していました。

全天で一番明るい星ということで、宮殿や天皇の名、あるいは人の名にもつけられています。

また、坩堝で金銀を造る工人たちにとってもシリウスは神でした。

シリウスの発音は渡来した記憶を残し、シラスとなったり、あるいはエソ、ヨソ、ヤソと変化します。セラ、シダラという発音もシリウスの変化といいます。

渡来人たちの崇拝する神を知る事で、日本にどのように同化していったのか、痕跡を探ることもできますね。

また、六嶽神社から見える「六ケ岳のシリウスの出」は辰さんが発見しました。これについては真鍋の記録にもない大発見です。

さらに、星読さんの語りに「月守の民」や「星読みの民」が出てきますが、これら二つの民が共存して砂漠を移動した話を真鍋が記していました。久しぶりに「脇巫女」の舞台も簡単におさらいしましょう。

目次です。

第1章 シリウスとは
第2章 六嶽神社とシリウスの出 
第3章 真鍋大覚の記録
 1 シリウスと暮らし
   (1)シリウスの名
   (2)冬の星
   (3)時や季節を知らせる星
   (4)天候を知らせる星
   (5)増水・津波を知らせる星
   (6)白昼星見
   (7)灯籠や灯台
 2 宮殿、天皇、人につけられたシリウスの名
 3 坩堝の輝きとシリウスの輝き 
 4 渡来の記憶
   (1)耶蘇の伝来
   (2)胡人
   (3)シルクロードの彼方
 5 暦
   (1)エジプトのソプト暦
   (2)エジプトの暦と日本の神代暦の始まり
   (3)キリスト誕生とシリウス
   (4)農耕の発祥
   (5)八十八夜と八十八か所巡拝の発祥
   (6)暦制をただす星
   (7)薩埵(率土)の輪廻は七百年

かなり多岐にわたりますが、ある程度、くくることが出来ました。




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シルクロードの彼方から星の名をたずさえて日本に渡って来た人々が暮らしていくうちに、発音が変化し、漢字が当てられていったようすが見えてきます。

繰り返し耳にし、読んでいくことで理解の助けになっていくことでしょう。

何となく謎に思っていたが、一つの単語でパーンと繋がることがあります。
それをもたらしてくれるのが真鍋大覚の記録の魅力ですね。(^^♪

日時 2018年7月8日(日)2時~4時
会場 福間中央公民館 2階 視聴覚室「ひもろぎ歴史愛好会」

所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)

交通アクセス JR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分。

会費 1500円(当日払い)


申し込み方法
1 氏名 ヨミガナ(ハンドル名)
2 住所 市町村、字名まで (例として福岡市東区香椎、春日市春日)
   (番地は不要です)
3 歴史カフェ福津708希望と記入。

なお、『神功皇后伝承を歩く』(上下)を購入希望の方はその旨書いてください。
当日お持ちします。

申し込みは「コチラ」あるいは、サイドバーの「メールはコチラ」から。

(ドコモの方は当方からの返事が届かない場合があります。
気にせずにご来場ください)

福間中央公民館 
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセスはJR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分です。






歴史カフェ小城
7月14日(土)第3回 3時~5時
1部:綾部八幡神社 聖徳太子の弟と共にやって来た綾部一族と旗占い
2部:神功皇后の伝承 久留米~
申し込みはコチラへ
もしくは小城鍋島家Tenへ電話で
①氏名(フリガナ)②住所(市町村字)③714小城希望
会場:小城鍋島家Ten

歴史と自然をまもる会
HPはコチラ
バスハイクの旧記事はコチラ
申し込みは 092-408-7140
7月12日(木) 皇后の出産 糟屋の里
詳細はコチラ





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by lunabura | 2018-06-16 20:49 | 歴史カフェ | Comments(10)

羌人(きょうじん)にやっと会えた



羌人(きょうじん)にやっと会えた


 

先ほど、NHKで「四川美人谷」が放映された。

本当に美人ばかりで見とれたが、頭には「かふり」を被っていた。
埴輪の女性と同じ被りものだ。

取材されていたのはギャロン・チベット族ということだが、
もともと羌人(きょうじん)がルーツだったという。

羌人は旧唐書には「東女国」と書かれている女王国の民だ。

番組によると、この民は夏王朝をうちたてた禹(う)のルーツだそうだ。

殷が建国されると羌人はいけにえとされていた。
次に周が起こると、羌人は王の妃として入り込んで身の安全を確保したという。

この羌人について、ずっと探していて、手掛かりがなかったのだが、この番組でようやく会えた。

何故探していたかというと、「羌人」は真鍋の本に出てくるからだ。

ところが、真鍋の本では「羌人」「姜人」の二つの単語が混在している。
どちらも「きょうじん」と発音するので、真鍋の語りを書き写す時に混同したのだろう。

このために、渡来人の整理がストップしていたのだが、もしかしたら、これで整理が進むかもしれない。


☆ ☆ ☆



明日の歴史カフェ429は当日参加でもOKです。
資料は数部多めに印刷しますが、出来たら午前中までに連絡入れてください。

消された大王 アントンイソラ
―安曇と阿部(阿倍)姓の王たちは日本書紀から封印されたー

1章 安曇磯良 白い覆面の神
2章 日本書紀に書かれなかった磯良の存在 各地の伝承から半生を描く
3章 各地に伝わる磯良と干珠満珠の記憶    
4章 中国正史に書かれた倭王・阿毎氏とは阿倍氏である
5章 高良玉垂宮で玉垂命(磯良)が高良の神(武内)に変わったのは白村江戦の十年後だった

前半は初めての方でも理解しやすいように、パワーポイントで全体を見ていきましょう。


会場は福津市の福間中央公民館です。
駐車場は145台分あります。
ここでの団体名は「ひもろぎ歴史愛好会」です。

今回は『神功皇后伝承を歩く』の下巻がメインです。

日時 2018年4月29日(日)2時~4時
会場 福間中央公民館 2階 視聴覚室「ひもろぎ歴史愛好会」
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセス JR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分。
会費 1500円(当日払い)


申し込み方法
1 氏名 ヨミガナ(ハンドル名)
2 住所 市町村、字名まで (例として福岡市東区香椎、春日市春日)
   (丁目や番地は不要です)
3 歴史カフェ429希望と記入。

なお、『神功皇后伝承を歩く』(上下)を購入希望の方はその旨書いてください。
当日お持ちします。

初めての申し込みは「コチラ」あるいは、サイドバーの「メールはコチラ」から。

二度以上の方は、当方からの返信をご利用くださいませ。

(ドコモの方は当方からの返事が届かない場合があります。
受け付けておりますので、気にせずご来場ください。)

福間中央公民館 
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセスはJR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分です。







歴史カフェ福津
4月29日(日)第18回 2時~4時
「消された大王 アントンイソラ
安曇姓とアベ姓の王たちは日本書紀から封印された」
詳細は コチラ 過去記事はコチラ

歴史カフェ小城
5月12日(土)第2回 3時~5時
1部:天山神社創建の人たち 藤原房前・持統天皇など
2部:神功皇后の伝承
申し込みはコチラへ    
第1回詳細はコチラ
会場:小城鍋島家Ten

歴史と自然をまもる会
バスハイクの旧記事はコチラ
5月 安曇の里




by lunabura | 2018-04-28 23:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Comments(1)

「三星堆のイ族」と「一目国のイ族」は同じか



「三星堆のイ族」

「一目国のイ族」は同じか



 賀茂氏は日本の開拓者で、刀剣より、百姓の鋤鍬の生産を主としていたという。蹈鞴の名人で北方系の胡人だった。火を見る時、目を守るために片目を閉じる事から、隻眼一目(せきがんひとつまなこ)の神として倭人の間で崇められた、と真鍋は言う。
その目は緑色。

その祖国である一目国が中国の北方にあったという。

中国最古の地理書といわれる『山海経』(せんがいきょう)にその記述が出てくる。『山海経』は紀元前4世紀~3世紀頃の成立とのことで、日本の弥生時代の早い時期には一目国があったことになる。

ウィキペディアによると、
「一目人たちの姓は威(い)であり、古代中国の帝・少昊の子孫であるということ、また、キビを食べているということが記されている。人々はこの国を怖がっており、鬼国(きこく)とも呼んでいたという。」
とある。鉄の民は目が一つだという話になった。

単眼の巨人はギリシア神話にはキュクロプスの名で、卓越した鍛冶技術を持つ神として登場する。
キュクロプスは一目の神であり、噴火口の神であり、蹈鞴の神だと真鍋は記す。

一目は燕語でカナムリと言い、それがカモに変化したという。燕国は鉄で知られる。賀茂氏は雷神を信仰する一族でもある。


武器ではなく、農工具を造ったという賀茂氏は、鉄も銅も加工できたのだろうか。
賀茂氏がつくった黄金の延べ板は「八つ橋」という土産物に、砂鉄で出来た玉鋼(たまはがね)は「おこしごめ」という土産物になったという。



以上は、過去記事に書いた内容でもあるが、昨日は一目国の人たちの姓を見て驚いた。

一目国の人は「威」姓、すなわちイ族なのだ。
先日、三星堆のイ族は追われ追われて絶壁の山に暮らしているのを書いたばかりだ。

いずれも「イ族」、青銅、鍛冶など共通項がある。


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ギリシア神話の時代に鍛冶をしていた賀茂一族は一目国を造り、南に移動して蜀を造り、東に移動して高句麗壁画に鍛冶と八咫烏の図を残した。
そういうストーリも可能になった。

一方、日本の筑後川沿いにも賀茂氏はいたが、神武天皇以前には入植していたことになる。それが浮羽の賀茂神社の持つ意味だ。


脊振山系で栄えた賀茂氏の祭祀はのちに弁財天信仰に置き換えられていく。
ヒカゲノカズラを髪に差す優美な祭りは中大兄皇子によって京に伝えられた。


賀茂氏は祭祀用具も造ったのではないか。
鉄鐸が岩戸開きの時に造られたというが、銅鐸の製造の担い手はだれか、と考えるとき、この賀茂氏の存在が一番に挙げられるのである。
加茂岩倉遺跡の加茂には賀茂氏がいて、製作にかかわったのではないか。


そして、その技術があったからこそ、
仏寺の梵鐘も早期に国内で作ることができたのではないか。
そう思われて仕方がない昨今である。



歴史カフェ 2018年2月11日(日)
日本の開拓者 賀茂氏
古代の北部九州に展開した出雲と水沼のハイブリット
―観世音寺の鐘、安心院・浮羽・高良山―




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by lunabura | 2018-01-17 20:58 | 歴史カフェ | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25