ひもろぎ逍遥

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タグ:祭り・イベント・遊び ( 236 ) タグの人気記事

朝倉の回り方2



朝倉の回り方2




時間が許すなら、粟島神社からそのまま寺内ダムに向かいましょう。
そのゲートのちょっと手前に矢埜竹神社があります。

今回は、秋月から寺内ダムの羽白熊鷲の墓を経て
二つの美奈宜神社を巡るコースです。

そして、少しずつ斉明天皇と中大兄皇子の足跡が重なってきます。
今回氾濫した桂川は斉明天皇たちの舞台でもあるのです。




秋月野鳥を拠点としていた羽白熊鷲は神功皇后軍に攻め込まれて、
寺内ダム方面に逃走します。

それを追った皇后軍は矢埜竹神社で矢の補充をし、
皇后と武内宿禰は喰那尾神社で戦術を練ります。

その後、羽白熊鷲は「あまぎ水の文化村」の敷地で
矢に討たれて亡くなったといいます。

勝利を収めた皇后軍は美奈宜神社で報恩の祈りを捧げて山を下り、
太刀八幡宮、福成神社で次なる敵、田油津姫討伐の準備をします。

今回はこれらの宮を辿り、さらにもう一つの美奈宜神社、
平塚川添遺跡、甘木歴史資料館を訪れます。

 なお、福成神社は斉明天皇が先勝祈願をした宮でもあります。

斉明天皇が藤原鎌足に命じて作らせた宮野神社と、
天智天皇が斉明天皇病気平癒を祈願するために作った別所神社にも
訪れましょう。



矢埜竹神社(上巻49)矢野竹984 
            皇后軍が矢竹を刈り取った

喰那尾神社(上巻48)三奈木4933 
            神功皇后は戦勝祈願をして陣を敷いた

羽白熊鷲塚(上巻50)矢野竹831 あまぎ水の文化村
            羽白熊鷲は矢に射られて死んだ
 
美奈宜(みなぎ)神社(寺内)(上巻51)荷原2421
            神功皇后は神々に戦勝の奉告をした

  三連水車の里(昼食)

太刀八幡宮(下巻52) 大庭7504 
            神功皇后は田油津姫攻撃に向けて太刀を奉納した 

福成神社(下巻53) 入地1673 神功皇后は宗像三女神に祈った 

美奈宜神社(林田)(上巻43)林田210川蜷が一夜で城を作った
     
平塚川添遺跡 平塚444-4 
 
甘木歴史資料館 甘木216−2 

宮野神社 宮野1248  斉明天皇が藤原鎌足に祖神を祀らせた

別所神社 須川3197 中大兄皇子が斉明天皇の病気平癒を祈った

バサロ 杷木久喜宮1665−1



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平塚川添遺跡は初めてでした。
水の環濠が2~3重あって、風情がありました。

天気が良かったら良い雰囲気の弥生集落が撮れそう。
朝倉邪馬台国説の確認にはここは最適です。


羽白熊鷲は太宰府や飯塚までも荒らしまわっていたので、
この集落の人たちも襲撃の対象だったのではないかな、
と考えたり。

緑のきれいな季節にもう一度行きたいな。

ここには工人たちがいたんですって。


出土物は甘木歴史資料館にあるということで訪問すると、
絵画の展示があって、考古資料はほとんどありませんでした。

以前は資料が沢山展示されていたのです。

筑後地方の豊富な出土物を集めているのに、
それを見学できないようにするのは良い事ではありません。

歴史の抹殺になってしまいます。

展示法について、再考を求めたいと思いました。
美術館では無いのです。
歴史資料館は担うものが大きいのです。









下の「バスハイク」をクリックすると画像付きの現地案内が出てきます。


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by lunabura | 2018-01-30 20:05 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

朝倉の回り方1 



朝倉の回り方1 





何度でも行きたくなる秋月。

そこに羽白熊鷲と神功皇后の戦いがあったとは、想像もしませんでした。
今日は、バスハイクで回った朝倉のコースの紹介です。

神功皇后が辿った道を車やバイクで回れます。
いい写真も撮れます。

朝倉でランチやカフェを楽しむだけで応援になります♪



<秋月編>

祭神仲哀天皇の崩御後、神功皇后は羽白熊鷲攻めに取り掛かります。

古処山の麓の秋月野鳥(のとり)を拠点としていた羽白熊鷲に対して、
皇后軍は筑前を通って山かげの道を行軍しました。

武器を砥がせた砥上神社、大本営となった夜須の松峡(まつお)八幡宮、
軍士達が敵前逃亡したために祈ったという大己貴神社、陣屋を敷いた老松神社。

秋月の垂裕(すいよう)神社前の黒門、秋月八幡宮、粟島神社と、
敵を追い詰めながら次々に敷かれた皇后軍の陣営地を訪ねます。

また、お腹が痛くなったという松尾宮にも訪れましょう。


松尾宮(下巻54)筑紫野市永岡587 神功皇后はお腹が痛くなった

砥上(とがみ)神社(上巻40)筑前町砥上上980 
               皇后が軍衆に武器を研ぎ磨かせた

みなみの里
 (道の駅)


松峡(まつお)八幡宮(上巻41)筑前町栗田605 
                 皇后が羽白熊鷲と戦うために宮を建てた

仙道古墳(上巻41)筑前町久光111-2 装飾古墳


大己貴神社(上巻42)筑前町弥永697 軍士たちが逃げ出したので
             皇后は大三輪の神を祀った


老松神社(上巻44)朝倉市下渕840 
               皇后軍は陣営「御府の森」を敷いた

垂裕神社(上巻45)朝倉市秋月野鳥666 
           皇后軍は陣営「梅園の森」を敷いた


秋月八幡宮(上巻46)朝倉市上秋月1717 
             皇后軍は陣営「宮園の森」を敷いた

粟島神社(上巻47)朝倉市日向石600 
             神功皇后が松に鎧を掛けて休息した

 三連水車の里 あさくら(道の駅)


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by lunabura | 2018-01-29 21:53 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)



深き山里より下りて  

美奈宜神社(寺内)







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神功皇后が天神地祇を祀って祈った喰那尾神社から
数度の遷宮を経て現在地に鎮座した美奈宜神社。










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その古社の風情は格別だ。
それでも秋月種実の頃に鎮座したというので、意外と新しい。

朝倉に来てからはバスハイクの皆さんの滞在がずいぶん長くなった。
それぞれに心の中で対話しているのだろう。

苔むした境内の建造物たち。

立体的な境内の地形。










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ずらりと並ぶ祠に知った社号を見つける。

志登神社がここに。
織幡神社もここに。


そして、パズルのカケラがはまり、意味を伝えてくる。

祭神と歴史が交錯する。










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宮地嶽神社だけが格別高いところに鎮座していた。

この意味は?
そう、斉明天皇も朝倉に来て翌日には傍の宮地嶽神社で祈願した。

朝倉の宮殿を準備したのは安曇族だろう。
白村江の直前まで、朝倉の支配層にいたのだろう。

そんな事を考えていると、
「これは十字架?」
という声に誘われて見に行く。









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すでにアンドレアス十字を砥上神社で見つけていた。
ここは、正十字。ケルト十字架にも近い。
隠れキリシタンがいたのかもしれない。

宣教師が入って来た時、海の人たちは先祖の言い伝えの断片をその言葉に聞き、
キリスト教徒となった人もいるという。
海には境がない。




さて、この宮は仁徳天皇の勅命で祀られたという。
神功皇后の孫。
仁徳天皇の名を最近はよく耳にする。
そこにも光と影があるのだろう。









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ほら、桜の枝が赤くなり始めた。
ここは、あ・さくら。だ(^^♪











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川の上流に寺内ダムがある。
この川はダムが流木を防いでくれた。


『神功皇后伝承を歩く』上巻51 神功皇后は戦勝の奉告をした





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by lunabura | 2018-01-26 20:45 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮・朝倉



神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮

朝倉



神功皇后軍は羽白熊鷲討伐後、
寺内ダムからの佐田川(荷原川)を下っていきます。

その足跡通りにバスを進めると、田園に出ました。




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その中に杜があって、遠方からも太刀八幡宮と分かります。









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地名は朝倉市大庭(おおば)ですが、
かつての小字には乙王丸(おとうまる)という名がついていました。



この「乙王丸」こそが神功皇后が奉納した太刀の銘だったといいます。










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今も刀を埋めた場所が伝えられています。


皇后が剣を抜いた所は「内抜剣区」といいます。
読み方は伝わっていませんでした。場所も分かりません。

そのすぐ南に荷原川が流れていますが、
そこから300mほど南の地域が「塗器」(ぬるげ)と言い、
剣や槍などに漆(うるし)をぬった事が地名の由来になっています。

今は田園です。
そこから東南部に「徳次」(とくつぎ)という地域があり、
「磨剣」(とぐつるぎ)から変化したといいます。
刀剣を磨いた所ですね。

川の近くで刀剣を砥いで磨き、漆を塗った。
これがそれぞれに小字名で伝わっていたのです。
漆はサビ止めなので、この刀剣が鉄と分かりました。

本に地図を載せるとき、場所が分からず、
思い切って朝倉観光協会にお尋ねしたら、
二か所を教えていただけました。

古代の場所を特定するのは簡単ではないので、とてもありがたかったです。
それを地図に反映させています。


現地は田園で、減反した所に樹木の苗が美しく紅葉していました。

ところが、荷原川の流域の田には川石が広がっていました。
夏の洪水の土石が田を覆っているのです。

現地はまだまだ大きなプロジェクトの力が必要なのが分かりました。

神功皇后の時代は流域の定まらない広大な川原が広がっていたことでしょう。

さて、神功皇后が何故、乙王丸を奉納したのか。
それは三女神にささげるためです。
三女神は剣から生まれた女神たち。
戦の勝利を願ったことが分かります。
このあと、皇后軍は再び戦いに向かいます。
それは筑後川の下流域に逃げた田油津姫を討つためでした。

このあとバスで太刀八幡宮から南2キロほどの福成神社を目指しました。
そこも三女神が祀られています。
神功皇后はここでも勝利の祈願をしたのですね。

筑後川の三女神は「水沼三女神」。
三女神を祀る聖地ですから、水沼の里といえます。
水沼の里はそれはそれは広大です。
バスハイクは水沼の里めぐりを次回にわたってすることになりました。



20180125

下巻52 太刀八幡宮 神功皇后は田油津姫攻撃に向けて太刀を奉納した





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by lunabura | 2018-01-25 20:50 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

武内宿禰VS羽白熊鷲 朝倉の戦い



武内宿禰VS羽白熊鷲 

朝倉の戦い



朝倉は神功皇后軍の陣営地が神社となってかなり残されていたので、
二回に分けてのバスハイクでした。

秋月八幡宮は羽白熊鷲の聖地と思われましたが、
そこに皇后軍が陣営を張ったということは、
すでに羽白軍は逃走した後。





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その後をバスで追っていくのが理想でしたが、
日を改めて、二回目は水の文化村を目指しました。







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そして、玄関前を通過して矢埜竹神社へ。
そこは羽白熊鷲たちに娘たちをさらわれて苦しむ里でした。

神功皇后が来た時には「もつそ汁」という葛の団子汁を差し上げたといいます。
皇后軍はここで矢の柄の補充をしました。

実は取材した時、この宮の祭神も歴史も分からなくて
分からないまま挙げることにしていたのです。

ところが、直前になって編集者がここの伝承を書き取った本を見つけました。
それは閉店前日の古書店にあったのです。
偶然にその本が手に入り、記事を全面的に書き換えました。

ダム建築に当たって、地元の伝承を掘り起こす作業が行われていたのです。
本の中に掲載されていた写真で、神功皇后の腰掛石が分かりました。

自分の写真を見ると、偶然に写りこんでいたのです。

そし、今回行ってみると、腰掛石は祠の中に移動して祀られていました。
神社の説明版も掲げられて、歴史が分かるようになっていました。

この矢埜竹神社の元宮は別の所にあったのですが、
水害で流されて、神託によって、現在地に決まったといいます。








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さて、そのあと、私たちは喰那尾神社に向かいました。
山道の参道を通っていきますが、ここも新たに整備されていました。

神功皇后はここで天神地祇を祀り、
武内宿禰が戦略を練ったといいます。

この狭い山頂のようすから、側近だけが来たことが分かります。
この宮も風水害のために下に下にと移動して美奈宜神社になりました。
そして、中宮はダムに掛かってしまったといいます。

ダムにはもう流木は見られませんでしたが、
この地域は常に水害の危険にさらされていることがよく分かりました。









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羽白熊鷲の終焉地は急な崖だったのかもしれません。
その向こうの山々が幻想的でした。


どこもどこも急な斜面だらけの中、
この付近は平らな頂上部だったようです。
ここに羽白熊鷲が逃げ込んだのは、
最終的な砦でも、あったのかもしれません。



最後は皇后軍の放った矢で討たれました。
その飛距離が長かったので、地元の人は不思議だと言われ、
私は弩だったのだろうと考えました。

それは豊浦宮に秦の始皇帝の末裔が亡命してきたとき、
きっと朝貢品に入っていたと思い、弥生時代の弩を探すと、
出雲から弩が発見されたのと出会ったのです。

武内宿禰の率いる皇后軍は精鋭隊だったようです。
武器は石器ではありません。
刀は鉄剣でした。
その証拠を探し求めて、「漆」を「塗」ったという地名に出会いました。

こうして、不思議なことが続いて
矢野竹で起こった歴史を掘り起こすことができたのです。

あいにく、羽白熊鷲の墓の跡に建物が建ったのが分かったのは、
建築後の後の話でした。



羽白熊鷲は弥生時代の邑の王だったのですね。

付近には「荷」がついた地名がいくつかあります。
原料を抱えて運び込み、武器生産をしていた一族だったと考えています。




<20180123>

『神功皇后伝承を歩く』
上巻48喰那尾神社 神功皇后が先勝祈願をして陣を敷いた
  49矢埜竹神社 皇后軍が矢竹を刈り取った
  50羽白熊鷲塚 羽白熊鷲は矢に射られて死んだ
  51美奈宜神社(寺内) 神功皇后は神々に戦勝の奉告をした



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by lunabura | 2018-01-23 20:20 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

何故か「こだま」たちが(^^♪  羽白熊鷲塚



何故か「こだま」たちが(^^♪

羽白熊鷲塚




朝倉バスハイクⅡで羽白熊鷲塚を見学に。

すると、何故にか「こだま」たちに遭遇。








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ほよ。









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ほよよ。










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いいね。










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羽白熊鷲塚。




水の文化村の職員駐車場付近で熊鷲は倒されたという。





羽白熊鷲塚 熊鷲は矢で射られた



『神功皇后伝承を歩く』上巻50




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by lunabura | 2018-01-21 22:52 | バスハイク | Trackback | Comments(2)

ラジオの日でした



先ほど、8時からのラジオを聴きました。
サイドバーからRKBに入ってラジコをポチって聞いています。


香椎宮の本殿から古宮のサニワ斎場までの放送でしたね。
私がとても好きな所です。

案内したのをこのように放送していただいてすごく嬉しく思いました。

誰もが自由に参拝できる天皇の旧跡なのです。
本当にありがたいですね。

来週も続きがあるように言われていましたね。

古宮の後は、武内宿禰屋敷横の不老水に行き、
栄西の寺、御島神社などに行ったので、
その放送があるのかもしれません。

外での収録はとても楽しかったです。

拙著には更に詳しく書いていますが、
スマホやパソコンで検索してHPなどを見ながらだと、
地形がよく分かると思います。

神功皇后伝承地は地形が面白いんです。
一昨日の羽白熊鷲塚も、戦術を練った喰那尾神社と組わせて行ったので、
地形の持つ意味深さを体感しました。

朝倉の様子、ボチボチご案内しますね。

ラジオのタイトルは「古代の福岡を歩く」です。

「ご来福」しよう
は「福岡古代コラム」
だんだん混乱してきちゃいました(;’∀’)






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by lunabura | 2018-01-20 20:48 | RKBラジオ 古代の福岡を歩く | Trackback | Comments(0)

ご来福しよう 「福岡古代コラム」 UPされました



ご来福しよう 

「福岡古代コラム」 UPされました
 



福岡県の古代史を含む観光スポットを案内するホームページ
「ご来福」しよう
に「福岡古代コラム」欄がありますが、
私が書いたコラムがUPされました^^

01~05です。
5本あります。

画像も私が撮ったものを使っていただきました。
ブログでも掲載した画像がほとんどですが、
大判なので見応えがあって、感動です。



HP「ご来福しよう」

から入って

右の「古代探訪」の方に入って、



福岡古代コラム


を見つけてくださいね。



今週書いた
「日本書紀に書かれた磐井と福岡の伝承」
も掲載されました。
長すぎるので(;'∀') PDFにしてくださっています。

最初は字数制限内に書いたのですが、
字数制限を取り払うことになったら
3000字を超えちゃいました。(^^♪
(書き過ぎだとは分かってたんですけどね)

内容は、
日本書紀の磐井の乱の現代語訳と
福岡と佐賀に残る磐井一族の話
をかいつまんで書いています。

ブログでは既に書いてはいますが、ランダムに書いているので、
このPDFなら、あらすじがよく分かると思います。

磐井の話は胸がキュンキュンしますね。


以下からPDFのあるページに飛べます。





トップページの鈴をクリックすると、
「おみくじと推薦神社」が出てきます。

今日は末吉でした。(´・ω・`)
で、これから運が良くなるんだって(^^)/


推薦神社は宇美八幡宮でした^^
ちょっと年齢的にはご利益がアレですが(;’∀’)

泉とクスノキに運をもらいに行こうかな。







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by lunabura | 2018-01-19 20:20 | Trackback | Comments(0)

今日は朝倉へ 2回目のバスハイク



今日は朝倉へ 

2回目のバスハイク



今日は『歴史と自然を守る会』のバスハイクで、朝倉に行ってきました。

朝はまだ雲が低く残っていましたが、午後からは晴れ間が見えました。

都市高速が渋滞していたのですが、なんと黒猫が道路に入り込んだためだったと、帰宅してニュースで知りました。

今回は神功皇后軍が秋月の羽白熊鷲を追い詰めて寺内ダム付近に行った所からのスタートです。

水の文化村の羽白熊鷲塚を見学して朝倉の平野部に下って各地を参拝してきました。
山は幻想的な雲が掛かっていましたよ。



林田の美奈宜神社ではちょうど小学生の学習があっていたので、参加させてもらったり、と面白い体験をしました。


平塚川添遺跡も初めて見学しました。
広大な弥生の環濠の中の遺跡は水の豊かな環境で、吉野ケ里遺跡とはまた趣が違っていました。福岡にこんな素敵な弥生遺跡があったとは!また改めて紹介したいと思います。


朝倉は何処も桜の木が沢山ありました。
春、秋月は渋滞するけど、他の神社でた~くさん見られることを発見しました^^






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上の2枚は美奈宜神社(林田)上巻43で撮影しましたよ。


バスハイクも十回かけて上巻50社をほぼ回りました。
次回から下巻の内容、田油津姫の里からとなります。





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by lunabura | 2018-01-18 20:42 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

「三星堆のイ族」と「一目国のイ族」は同じか



「三星堆のイ族」

「一目国のイ族」は同じか



 賀茂氏は日本の開拓者で、刀剣より、百姓の鋤鍬の生産を主としていたという。蹈鞴の名人で北方系の胡人だった。火を見る時、目を守るために片目を閉じる事から、隻眼一目(せきがんひとつまなこ)の神として倭人の間で崇められた、と真鍋は言う。
その目は緑色。

その祖国である一目国が中国の北方にあったという。

中国最古の地理書といわれる『山海経』(せんがいきょう)にその記述が出てくる。『山海経』は紀元前4世紀~3世紀頃の成立とのことで、日本の弥生時代の早い時期には一目国があったことになる。

ウィキペディアによると、
「一目人たちの姓は威(い)であり、古代中国の帝・少昊の子孫であるということ、また、キビを食べているということが記されている。人々はこの国を怖がっており、鬼国(きこく)とも呼んでいたという。」
とある。鉄の民は目が一つだという話になった。

単眼の巨人はギリシア神話にはキュクロプスの名で、卓越した鍛冶技術を持つ神として登場する。
キュクロプスは一目の神であり、噴火口の神であり、蹈鞴の神だと真鍋は記す。

一目は燕語でカナムリと言い、それがカモに変化したという。燕国は鉄で知られる。賀茂氏は雷神を信仰する一族でもある。


武器ではなく、農工具を造ったという賀茂氏は、鉄も銅も加工できたのだろうか。
賀茂氏がつくった黄金の延べ板は「八つ橋」という土産物に、砂鉄で出来た玉鋼(たまはがね)は「おこしごめ」という土産物になったという。



以上は、過去記事に書いた内容でもあるが、昨日は一目国の人たちの姓を見て驚いた。

一目国の人は「威」姓、すなわちイ族なのだ。
先日、三星堆のイ族は追われ追われて絶壁の山に暮らしているのを書いたばかりだ。

いずれも「イ族」、青銅、鍛冶など共通項がある。


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ギリシア神話の時代に鍛冶をしていた賀茂一族は一目国を造り、南に移動して蜀を造り、東に移動して高句麗壁画に鍛冶と八咫烏の図を残した。
そういうストーリも可能になった。

一方、日本の筑後川沿いにも賀茂氏はいたが、神武天皇以前には入植していたことになる。それが浮羽の賀茂神社の持つ意味だ。


脊振山系で栄えた賀茂氏の祭祀はのちに弁財天信仰に置き換えられていく。
ヒカゲノカズラを髪に差す優美な祭りは中大兄皇子によって京に伝えられた。


賀茂氏は祭祀用具も造ったのではないか。
鉄鐸が岩戸開きの時に造られたというが、銅鐸の製造の担い手はだれか、と考えるとき、この賀茂氏の存在が一番に挙げられるのである。
加茂岩倉遺跡の加茂には賀茂氏がいて、製作にかかわったのではないか。


そして、その技術があったからこそ、
仏寺の梵鐘も早期に国内で作ることができたのではないか。
そう思われて仕方がない昨今である。



歴史カフェ 2018年2月11日(日)
日本の開拓者 賀茂氏
古代の北部九州に展開した出雲と水沼のハイブリット
―観世音寺の鐘、安心院・浮羽・高良山―




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by lunabura | 2018-01-17 20:58 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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