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脇巫女 35猿田峠



脇巫女 35
WAKIMIKO
猿田峠


2016年1月17日。
志賀島歴史講座のあと、いつものように皆さんから
個人的な質問を受ける中、久しぶりに愛音さんの姿があった。
ご夫妻で来られていた。
愛音(あいね)さんとは八所宮や豊日社以来のご縁だ。

愛音さんが豊日社での出来事を話してくれた。

ご主人が「脇巫女」を見ていてくださったということで
志賀島まで足を運ばれたのだろう。

これもまた無関係の話ではない。

断片的な話なので、追加や訂正があったらコメントいだたけたらと思う。

鞍手から宗像市に向かう途中に猿田峠がある。
比較的緩やかな勾配だが、雪が少しでも降ると車は立ち往生するという。

そこに豊日社がある。
麓に猿田彦とアメノウズメを祀っている。
豊日社そのものは長い石段の上にある。

まだ、私は上の方には参拝していない。

かつて、菊如さんたちがその社に呼ばれ、
荒れ果てた境内の石造物を立て直し、
手入れをしたという話を聞いていた。

そして、晴れて麓の猿田彦などの神々をお祭することが出来た。

その時の過去記事が以下。




豊日社
とよひ
 



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猿田峠のかたわらに鎮座する豊日社。


c0222861_21421514.jpg


長い眠りから覚めて集われた、六柱の猿田彦さま。

今日はその一周年の神事に参加させていただきました。

その数日前「猿田彦は倭国の大神」と「豊日別神社」(行橋市)に
書かれているのを知りました。

真実の歴史の再興のとき。
あたらしき枠組みの起こりのとき。

心強き神々の出現を寿(ことほ)ぐ。

c0222861_21423541.jpg





地図
福岡県宗像市吉留






以上が過去記事だ。


愛音さんが言うには、
この神事のあと、地元の人たちから宮に関わることを
遠慮するように言われたという。


そして、最近、再び猿田彦を祀る神事をしていたところ、
上の方で何やら不穏な雰囲気が伝わって来たので
上がってみると、残念ながら手入れがされていなかったらしい。

そして、物部の兵士がざっと200人ほど現れて
「ここは聖地だったのに、どうしてこのようになった」
と怒ったという。
「鏡も無くなっている」と。

それは額田王の鏡らしい。(御魂が入っている?)

そして「ニギタツ」の歌の話が出たという。
そう、
饒田津に 船乗りせんと 月まてば 
潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな
の歌ではないかと思われる。

饒田津は瀬戸内海にあるというのが定説だが、
鞍手の新北(にぎた)もまた「津」があったのではないか。
そんな話は七色とも話題にしていた。

実際、「ニギタ津は鞍手の新北津」という説があるのも知っている。

鞍手は意外に標高が低く、奥の方でも1~2メートルだという。
だから、いま、津波災害の問題を話題にしているのだが。

話はそれるが、長い付き合いの友人が先週、
唐突に鞍手で大水害があった話をし始めた。

彼女は鞍手病院の近くに住んでいたらしいが、
胸まで水に漬かりながら家に帰ったという。

それは昭和28年の大水害だ。
地方紙を調べると、28年の水害は必ず出てくる。
どこもかしこも堤防が壊れた。

こんな話を突然彼女がすること自体、タイミングが合いすぎる。
常にこの問題は忘れてはならないのだろう。

そして、地元の人から非公開で次のような話が入った。

水害のあと、近くの人に
どうして目の前の丘陵に済まないのかと尋ねたら、
「そこには禁足地があるから」と言った。

そう、そここそ、例の「鷹の口おだ山」だ。
禁足地。
その謂れを調べるのに、発掘調査報告書は大きなヒントをくれる。
きっと星読や七色が調べてくれるだろう。




さて、話を猿田峠に戻そう。

怒れる200人の物部の兵士たちが言うには、
豊日社は鞍手への入り口を守る地として聖地としたのだと。

今は倒木や落ち葉で荒れているという。

そのただならぬ怒りに、神職らは必死の祓いで鎮めたという。

そして、話題には新北、古物などが出たという。
古物神社は本来の呼び方「ふるべもののべ」と呼んでほしいと。

これを聞いて、私はもう一つの話を思い起こさずにはいられなかった。

これも非公開コメントなのだが、Fさんが、
高倉神社、古物神社、古門横穴墓に行ったあと、夢を見たという。

「朝方、古代の恰好の若者達が争っている夢を見ました。
場所は古物神社の下部に土俵がある広場があったと思いますが」
と。

物部の兵士たちは、鞍手が大切なのだ。

そして、鞍手の聖地を守ることが出来るのは鞍手の人たちなのだ。





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by lunabura | 2016-01-18 21:44 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(34)

脇巫女 30聖なる幾何学模様の断絶


脇巫女 30
WAKIMIKO

聖なる幾何学模様の断絶


鞍手を中心として描かれている聖なる幾何学模様の発見は
ほんの数日前のことだ。
まだまだ色んなラインがあるのを古月が発見しつつある。

そして、全体像が見えてくるにつれ、
いったん大地に描かれた聖なるラインが断絶し、
もう一度、描き直された形跡を見つけたという。
それは古代に地震が起こり、断層が生じたためだろうと古月は考えた。

それが顕著にみられる部分が十六神社の付近だそうだ。
星読が十六神社は移動していると言ったが、
それが断層のための書き換えの痕跡という可能性も出て来た。

この断層は現代でも知られていない未知の断層だという。

それが起こったのは縄文か弥生か、
何か時代が特定できる情報がないか、古月からメールが入った。



地震で思い起こすのは、
まずは西暦200年の神功皇后の三韓征討の時の地震だ。
すでに何度か書いて繰り返しになるが、
倭国の船団が新羅に着いた時、地震が起こり、
新羅国の半ばまで津波が到達した。
このおかげで戦わずして勝利したのだが、
その勝利のシンボルが干珠満珠なのだ。

地震雲の存在を世に出した真鍋大覚は、
その時の震源地を新羅の慶州付近とする。
今、その浜辺は原発がずらりと軒を並べている。

志賀海神社がその頃、沖津宮辺りから現在地に遷宮したのは謎なのだが、
その津波が日本にも押し寄せたので、
元宮が壊滅状態になったのではないかと考えている。
そのために博多湾側に遷宮したのだろうと。
しかし、そこでも津波に遭って、現在の高地に移動したという話は地元で聞いた。



さて、次に思い出すのは宗像市の陸と大島が海で隔てられたという話だ。
これも真鍋が書いているのだが、どうしても受け入れられなかった。

ところが、チェリーさんの示した西山断層の延長線上に大島があるのを知って、
その可能性があったことをようやく理解した。

大島には宗像大社の仲津宮がある。
陸と島の間はクララの瀬戸という。

玄界灘自体が一年に一センチ近く水位が上昇していて、
筑紫の漁師はかつての谷が瀬に変わった時代をよく記憶していたそうだ。

そして、陸が海に沈むと、その春、深夜に天頂に達した星の名を瀬戸につけたという。
大島が島になった時の星は倶楽羅星(くららのほし)だった。
そうして、瀬戸の名は倉良瀬戸となった。
明治22年(1889)の測量では15・0mの深さがあったという。

倉良瀬戸が出来たのは雄略帝9年(465)である。

宗像の神の二柱の間が潮で分けられてしまった大事は
『日本書紀』に粉飾されて次のように創作されたのではないかと真鍋は言う。

<雄略紀九年(465)の条
春二月の甲子(きのえね)の朔に、
凡河内直香賜(おほしかうちのあたひかたぶ)と采女(うねめ)を
遣わして胸方(むなかた)の神を祀らせた。
3月に天皇はみずから新羅を討とうと思っていた。
神は天皇を戒めて「行ってはならぬ」と言われた。
天皇はこれを聞いて行かなかった。>

天平の頃までは、その背景に陸の陥没があったことを
人々は分かっていたという。

倉良の語源はギリシア語の渓谷という意味のキラダであろうと真鍋は言う。
神湊(こうのみなと)ではこのころから百済と往来するようになった。

それから八年後、473年、今度は針摺の瀬戸がふさがってしまった。
このために博多湾から筑後川へ舟で行くことが容易でなくなった。

この五世紀後半という古墳時代、筑紫の船運は大変化を余儀なくされた。

宗像の沈んでしまった瀬戸を見つめるのが鐘の岬の織幡神社である。
ここは武内宿禰が沓を残して昇天したという縁起を伝えるが、
それは異敵から我が国を守るためだった。

しかし、先年、宗像で講演したあと、皆で参拝しに行ったのだが、
パラさんが、ここは地震や天変地異からも守っている
と言ったのを今でも覚えている。

その時はそのような問題意識が無かったのだが、
まさに目の前の海が沈むのを祭神は見届けたことになる。


天武天皇7年12月(679年)には筑紫大地震が起こっている。
この時は耳納連山が大断層を生じ、高良山の一部が崩落した。
この6年後に南海トラフ地震が起きたという。

このことと、星読の託宣とを考え合わせると、
イチキシマ姫が沖ノ島に封印されたあと、
六ケ岳では大災害があっため、人々はイチキシマ姫の祟りだと畏れ、
神の怒りを鎮めるために聖なる幾何学模様を描いて結界を施した。

ところが、次には西山断層が動く大地震が起こり、
大島の前の海が陥没し、六ケ岳周囲も断層が生じた。

またもやイチキシマ姫の祟りだと畏れ、
人々は断層によってずれた結界をもう一度作り直した。

そんなストーリーが出来る。

古月は結界のラインが3本あるという。
もう一度、大災害があったのだろう。

それほど、イチキシマ姫の怒りは畏れられた。
これが前回の託宣の末尾
「六ケ岳に屈する」
という意味かもしれない。



倉良瀬戸







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by lunabura | 2016-01-07 20:45 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

宗像大菩薩と「なかて」シリーズの件



過去記事の<宗像大菩薩と「なかて」>シリーズに番号を打って、
順に読めるようにしました。

(1)宗像大菩薩とは男神だった
(2)紅白の「なかて」と北欧神話フライヤとユール
(3)紅旗と白旗・古代の宗像の王と旗
(4)「なかて」はメイポールと同起源
(5)古代の紅とシルク

カテゴリは「宗像大社」です。
http://lunabura.exblog.jp/i37/


「宗像族」と「水沼族」(むなかた族とみぬま族)
どちらも三女神を祀ることから、
その関係をブログの当初から考えていて、
両族は同族だという自分の仮説を検証している段階です。

宗像氏の系図を書いた本があって、祖先は「出雲族」でした。
これに関しては「宮地嶽―磐井の末裔」本でも少し触れます。

今、それらをまとめると、
「出雲族」と「水沼族」が通婚して「宗像族」となった、
という感じになるのかな…。

宗像族にとっては、父系が大国主命で、母系が三女神となります。


さて、
今日は、志賀島の歴史講座を投稿できるかなと思っていましたが、
先方との確認がまだできていないので、明日ぐらいになると思います。

「高良玉垂宮神秘書」を安曇族の観点で構成しようと思っています。


で、「神秘書」には「物部を秘す」と書いてあります。
秘密だと言われると、ついつい、突っ込んでしまうよね (^_-)-☆

でも、志賀島ではあまり突っ込んではなりません。
このあたりが工夫のしどころです。

「脇巫女」でも水沼族と宗像族と物部氏が話題になっていますが、
高良山の麓でも近い時代の物部氏のようすが見えてきます。

宗像の高磯強石将軍とか、物部氏の武内宿禰とか、
具体的な名前が出てくると、急にリアルになるので面白いです。

「脇巫女」が中断していますが、
これがどうなるのか、私も知っていません。

忙しくなるのが分かっていたから、急いで投稿していたのですが、
予定外の講座が入ったので、こちらを優先しています。

でも、どれもがリンクし合っているので、お付き合いくださいね。




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by lunabura | 2015-12-20 21:05 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

(1)宗像大菩薩とは男神だった


 
(1)宗像大菩薩とは男神だった


平安時代以降、歴史が絶えたという筑後の水沼族(みぬま)。
宗像では、いずこからかやって来たのか分からない宗像族
宗像市の宗像大社に関しては平安時代以前に遡る記録をまだ見つけていない。
両者には三女神を祀るという共通点がある。

ミヌマカタとムナカタ。多分これは同一氏族。
そんな仮説で、解決しなければならない問題が有る中に、「宗像大神」がありました。
それは福津市の縫殿神社に祀られる縫姫の兄媛を引き止めた神です。
この宗像大神はいったい誰だろう。


呉から連れて来たの縫い姫は四人いたのですが、宗像大神がどうしても一人置いていってほしいと言われたんですね。それで兄媛が福津に残ったのですが、この「宗像大神」とは誰なのか。
 これは応神天皇の時代の話です。すなわち神功皇后の御子の時代です。

そして、別件で「御長手」を調べていた時、『宗像大菩薩縁起』に、次のような文があることが分かりました。
「宗像大社の無形民俗文化財」 森弘子 より
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_22_file.pdf

「御長手」の起源について『宗像大菩薩御縁起』(以下『御縁起』)「強石(ごうせき)将軍(今宗像大菩薩)依神功皇后勅命三韓征伐事」14)の項に、次のように記されている。
神功皇后出兵の折、一人の老翁が「御長手」を捧げて出現し、自分は瑞穂国の帝であり、天照大神の御子である。これまで夷敵征伐7度の棟梁を務めた「高礒(たかいそ)強石(ごうせき)将軍である」と名乗った。強石将軍は今の宗像大菩薩である。

『御縁起』によると、宗像大菩薩とは高磯強石将軍という人物で、神功皇后の新羅の役に参加している男性でした。三女神ではなかったんですね。老翁の姿だし、天照大神の御子なので男神に間違いありません。

アマテラスの五人の子の名前は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命」。この中の誰かということになります。でも、今日のテーマはこの中の誰なのかということでなく、ミヌマとムナカタに関しての考察でした。

引用文の先にはこんな文が載っていました。
武内大臣は赤白二流の旗を織り持ち、強石将軍(宗像大菩薩)の御手長19)に付け、これを軍の前陣に捧げて進んだ。軍が旗を指すことはこの時より始まった。

「武内大臣が紅白二流の旗を織り持」ったという話は織幡神社に出てきます。るなのお話会では毎回出てきますね(^_^;)

この紅白の旗を捧げて進んだのが強石将軍だというのです。


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宗像大社の「みあれ祭」紅白の旗がなびく

ガイドブックなら「4織幡神社」を見てね。そこに「この旗を戦の時に司った神を旗指大明神と言い、宗像市多禮(たれ)の指来(さしたり)神社に祀られているという」と紹介しています。

ここはまだ参拝していないのですが、捨て置けない伝承だったので本に書いておきました。どうやらこの神が宗像大菩薩だということになり、その拠点は宗像市多禮にあるということになりそうです。


ここまで考えていたところで急ぎのゲラ刷り校正が入って来て、この記事はストップしました。

そして本の校正のため、三女神を祀る久留米の赤司八幡神社の資料を見直していたとき、「宗形金己呂神」という名が出て来たのです。\(◎o◎)/!

この神は「キンコロ」と読むのでしょうか?「強石」と意味が通じそうな名前です。でも分からない。

分かるのは「宗形神」が筑後国に祀られていた。しかも数カ所もということ。
これは天慶二年(939年)、平安時代の記録です。これをどう解く?

平安時代の終わりごろ、筑後国では既に宗像神が各地に祀られていた。ということは水沼はすでに筑後で宗形に変化していた?

一方で、宗像には旗指大明神がいて、強石将軍と言い、のちに宗像大菩薩と称されるようになった。この一族が呉の縫い姫を留めた?

これらを時代的にどう解く?

「そうだね。今日は頭も働かないし、備忘録ということにしておこう。あとは訪問者諸君に解いてもらいたまえ。」 (-。-)y-゜゜゜
と、るな探偵は仰せになるのでした。

土地勘がある人でないと、多分さっぱり分からないテーマでした (+_+)
とりあえず、「宗像大菩薩とは男神なり」だけはクリア。



赤 宗像市 多禮   青 久留米市 赤司八幡神社




2015,02、27


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by lunabura | 2015-12-20 20:22 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(8)

(2)紅白の「なかて」と北欧神話フライヤとユール


(2)紅白の「なかて」とは神を先導する器

北欧神話フライヤとユール

今夜は獅子座が空を駈けながら木星を咥えようとしていました。

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今日は3月14日。三寒四温の波の中、暖かい日差しに騙されてコートを着ずに外に出ると冷たい風に身を縮めてしまいます。

そんな冬とも春ともいえない季節に夜空を駈けるのが「獅子座」。獅子座は占星術では7~8月生まれの人の星座なので夏を思わせますが、これは春の星座だそうです。

今日は真鍋を紐解きましょう。(『儺の国の星拾遺』p129)獅子座ヅール星
獅子座を軒轅(けんえん)といった。黄帝軒轅氏(前2698~2599)の御車のことである。(略)

軒轅とは早春の星である。これを古人は仲女星(なかてのほし)・中條(なかてのほし)といった。「なかて」とは長門(ながと・仲渡)とも書く。時間空間の無明未妙の状を形容した古語である。

「とりづぎ」或は「ひきあひ」など媒酌人的存在であった。宮中では三太夫(さんだゆう)という。能の舞台で三番叟(さんばそう)がこの主旨を生かした例である。

古代中国では獅子座は皇帝の車に例えられていました。これを日本では「なかての星」と呼んでいたと言います。

「なか」とは「時間空間の無明未妙の状」を表すのですね。それは、人と人との間、演目と演目の間、そして春と夏の間、そんな所にも使われていました。

時あたかも冬至から春分、或は立春から立夏までの夜空に輝く黄金の星であって、一年の終りと始めの季節である。

獅子座の腰あたりに輝く星をDuhr(ヅール)と言い、黄金色をしているそうです。春の星座、獅子座。この獅子座が象徴する季節を一年の終りと始めとする部族なら「春分の日」を年の始まりとしたのでしょう。あと一週間で春分の日ですね。

昨年末、朔旦冬至で極寒の中を走り回ったのは遠い昔のようです。まだ三カ月前の話だというのに。

つづき。
「なかて」とは竿に紅白の二条の布を螺旋状に巻いて、神を先導する器である。今も宗像沖ノ島にこの伝統が守られている。五十年程前は祝賀の祭典の会場では天幕を支える柱にこの様式が採用されていた。

子供の頃、運動会の入場門の柱は紅白で巻かれていましたが、もしかしたら地域的なものだったのでしょうか。今もそうするのでしょうか。ネットで調べるとこんな商品がありました。

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この紅白の「なかて」は、本来「神を先導する器」だったと言います。沖ノ島に伝わっていたそうですが、今はどうでしょうか。

この紅白こそ、竹内宿禰が織幡神社の近くの波津(はつ)で織らせ、宗像大菩薩が新羅戦の時に船の先頭で振ったものでもある訳です。

さて、「紅白」と言えば現代日本では、それだけで大晦日に行われる紅白歌合戦を表しますが、北欧でも「行く年来る年」を象徴する二神に現れていると木下祝夫は言います。

香椎宮司木下祝夫博士(1894~1980)によれば、北欧の神話に出る二神で紅Fraiya(フライヤ)であり、白はJuhl(ユウル)であり、紅が来る年、白は去る年である。

木下祝夫は50年かけて『古事記』のドイツ語訳を完成させた人で、香椎宮の宮司でした。その一族の方が当ブログにコメントを入れられたので、香椎宮で尋ねると、香椎宮の宮司は世襲ではないとのことで、木下の話を聞くことはできませんでした。

木下祝夫はドイツ語が出来るので、北欧神話にも詳しかったのでしょう。その神話にも「紅白」がありました。「紅」はフライヤという女神です。

ネットでは「フレイヤ」と検索すると出てきます。ウィキペディアを見てみましょう。

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(画像出典 ウィキペディア)

美、愛、豊饒、戦い、そして魔法や死を守護する北欧神話の太母。美しい女性の姿をしており女性の美徳と悪徳を全て内包した女神で、非常に美しく、自由奔放な性格で、欲望のまま行動し、性的には奔放であった。

「太母フライヤ」その自由な生き方はウィキぺディアでゆっくり読んでください。

一方、「白」はユウルです。

ユールは、古代ヨーロッパのゲルマン民族、ヴァイキングの間で、冬至の頃に行われた祭りのこと。のちにキリスト教との混交が行われたが、北欧諸国では現在でもクリスマスのことをユールと呼ぶ。

ユールとは冬至の祭なんですね。のちにキリスト教に習合していきます。次はユール・トムテ。

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(画像出典 ウィキぺディア)粥をもらうユール・トムテ

北欧のサンタクロースは、ユール・トムテやユールニッセといわれる。ユール・トムテはスウェーデンのサンタクロースである。元々はノームで、赤い帽子に、白く長いあごひげを蓄えている。元々トムテは人間に善行を施す妖精で、家事を手伝ってくれたお礼として、クリスマスに椀一杯のスープまたは粥をもらう。

ユール・トムテはもともとノームですって。いろいろ手伝ってくれる小さいおじさん^^

ユール・トムテの帽子は赤。あごひげは白。ここにも紅白のシンボルがありました。その色にも「行く年来る年」の意味合いが込められているという事なのでしょう。冬至が新年の始まりなら「とひ族」かな。

春分や冬至をそれぞれ新年とする部族の話のようですが、真鍋の文には「時あたかも冬至から春分、或は立春から立夏まで」という不思議な表現があり、曖昧な季節感が書かれているのも、「なかて」の状態を表しているようですね。

そして先述のように、現代日本の「紅白」歌合戦も、まさに「行く年来る年」の祭典です。これは偶然なのでしょうか。それとも北欧と共通のシンボルが日本人の無意識層にあって、それが顕現したのでしょうか。

真鍋の話は心が地球規模に拡大し、また集合意識の深層を覗かせてくれるので、不思議な感覚になります。

さて、話は違いますが、今朝の新聞にフランス人の画家が「亡くなった仲哀天皇を偲ぶ竹内宿禰」という絵を香椎宮に奉納した記事が載っていました。日本神話の絵本を11冊も画かれたとか。

フランス人がどうして『古事記』を知っているのかと思ったんですが、木下祝夫がドイツ語訳しているので、ヨーロッパでも手軽に読めるのでしょう。この記事とシンクロして驚きました。



そして、明日は八幡東での下巻のお話会です。ガイドブックはあいにく間に合いませんでしたが、美しいフクオカ。画像でお届けします ^^


2015.3.14


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by lunabura | 2015-12-19 12:46 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(5)

(3)紅旗と白旗・古代の宗像の王と旗


(3)紅旗と白旗

古代の宗像の王と旗


「古代の宗像」
宗像大社の「みあれ祭」は正平23年(1368)の行事記録を参考に昭和37年に復興されたのですが、その船に掲げられている紅白の旗は宗像大菩薩が出現した時に捧げ持っていたものが由来でした。それを「御長手」と言い、この宗像大菩薩の時代は思いがけず神功皇后の時代のものでした。

当時の宗像大菩薩の名は「高磯(たかいそ)強石(ごうせき)将軍」。新羅戦の前にすでに七度の夷敵討伐の棟梁を務めたと自ら説明しています。

この紅白の旗は同じ宗像の織幡神社の縁起によると、竹内宿禰が波津(はつ)で織らせたと伝えています。波津とは神社のすぐ麓の入江の集落で、もともと「はた」と呼んでいたので、秦氏の入植地と考えています。

竹内宿禰に織らせる権限があったということは、宿禰が秦氏と通婚し、縁戚関係を結んだからではないか、だから竹内宿禰の長男の名が波多八代宿禰というのではないか。そんな仮説を以前書きました。

これらから、古代宗像のクニを治めていたのは高磯強石将軍で、応神天皇の時代に縫姫を留めた宗像大神とは、この将軍か、その子孫と考えられます。

その神を祀る宮は宗像大社の側を流れる釣川(つりかわ)の対岸にあります。

宗像大神はいったい、いつ男神から女神に変わったのか、新たな謎が出て来たのですが、これもまたいつか解ける日を待ちましょう。



「紅白の旗」
先日からターゲットにしているのは「紅白の旗」でした。
「御長手」とは「神を先導する器」で「紅白を巻いた竿」であり、そのルーツは北欧神話の女神フライヤと男神ユール。紅白は春分の、年の変わり目を表すものでした。

以上がこれまでの復習です。

そもそも「紅白」の始まりは源平合戦とされているようですが、織幡神社で「紅白」の概念が存在しているのを見て、実は違和感がありました。「紅組」と「白組」に分かれて戦うというイメージが染みついているので、「紅白」一緒に持っているというのが違和感の原因かもしれません。

しかし、それが「神を先導する器」という意味を持っていたのなら少し納得できます。

実はガイドブックを書きながら気にかけていたものがありました。
それが「八本の白旗」です。

神功皇后が新羅戦から帰国後、祭祀のアイテムとして登場したのが「白旗八本」なのです。紅旗の存在が見つかりません。いつか調べて見ようと思っていましたが、リンクしている「遠野物語」さんからの問いかけに触発されて、今、見直してみようと思いました。

ここに八幡信仰の謎解きのヒントがありそうなんですね。

旗の伝承を伝える神社を時系列に並べてみます。

●竹内宿禰は紅白の旗を織らせた。(織幡神社)

●宇美町宇美八幡宮では新羅からの帰国後も警護を怠らず、神功皇后の産所の四隅に八本の白旗を立てたことから八幡麻呂と呼んだ。(宇美八幡宮)

●その時に警護兵だった田原麻呂は大事にその白旗を持って帰った。(正八幡神社)

●飯塚市撃鼓神社に再訪した神功皇后は白旗八流を納めた。(撃鼓神社)

この通り、帰国後は白旗だけが登場します。
次に、二社の絵巻を比べてみましょう。



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これは大善寺玉垂宮。

紅白がありますが、水色っぽいのもありますね。




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これは志賀海神社。

いずれも白旗です。


どちらが正しいのか判定は出来ませんが、より現地に近い方の志賀海神社の「白旗だけ」が気になります。
絵巻の時代は14世紀頃で、すでに1000年以上経って描かれています。風俗は平安~鎌倉っぽいですね。

「紅」を染めるには染料と染めの技術が必要です。
かつては貝で染め、のちに「あかね」で染めるようになった?

紅旗は大変貴重なものなので「ながて」という神を示すシンボルのみに使われ、戦いに使われた旗は「白」だけだったのではないか。と今の所考えています。



2015年3月 投稿


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by lunabura | 2015-12-18 17:20 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(7)

(4)「なかて」はメイポールと同起源



(4)「なかて」はメイポールと同起源


「なかて」とは「神を先導する器」というテーマで書き続けていますが、まーりんさんからもコメントをいただきました。

「神を先導する」「紅白を巻いた竿」で、女神フライアに関係するといえば、メイポールがどうしても思い浮びます。
メイポールは世界軸または世界樹を模しているとも言われているそうです(wikiなど)。

いまどきのメイポールはカラフルなようですが、『メイポールは通常は白、よくあるのはさらに赤と青(red, blue)のストライプに塗られている』。

また、その周りを男女が『赤、白そして青のリボン』の端を持って踊りながら回ることで、リボンはポールに複雑なパターンを織り上げながら巻き付く。(The English Village: History and Traditions 著者: Martin Wainwright)


これを読んで福岡女学院のメイポールダンスを思い出しました。
youtubeを見ると、なるほど、紅白のリボンをダンスをしながらポールに巻いています。


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画像出典https://www.youtube.com/watch?v=ZPNQfLbXcss

これを見て思ったんですが、もし、「なかて」を作るとしたら、二人でそれぞれ紅と白の布を持ってぐるぐる回るのが一番合理的なんですね。始まりはそんな形だったのかもしれません。

のちにヨーロッパでは春の祭典としてリボンの数が増え、ダンスが加わって複雑化しながら発展していったみたいですね。


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ウィキペディアより イギリス



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画像出典 株式会社SPI あ・える倶楽部 篠塚千弘の「にこにこ日記」



春の女神フライヤの色は赤となったり、白となったり。冬の神も民族によって異なったりしています。それでも共通するのは春の祭典であること。



そして、Fさんから、メールが!

「福岡県筑紫野市山家の宝満宮で催される神楽。岩戸神楽なのに磯羅が出てきて、赤と青の玉も出てきます。https://www.youtube.com/watch?v=ea8X7hn5G_4
 この磯羅の持ち物が赤と白の「なかて」風なのです。ちょっと面白かったのでご報告まで。」



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画像出典https://www.youtube.com/watch?v=ea8X7hn5G_4

YOUTUBEを見ると、磯良は白装束なのですぐに分かりますね!その手には確かに「なかて」が。\(◎o◎)/!

これが古式を伝えているとしたら、意外にも「なかて」はハンディなサイズでした。もっと大きなものを想像していましたから。


宗像大菩薩が振ったのは「なかて」の方みたいですね!


そして、「なかて」は北欧から発して東西に広がり、サイズを変えながら地球を一周した♪







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by lunabura | 2015-12-17 17:42 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(0)

(5)古代の紅とシルク


(5)古代の紅とシルク


さて、旗を振ったという高磯強石将軍(宗像大菩薩)の旗は何色だったのか?
神を先導する器としての長手は紅白ですが、軍旗なら白旗だけではなかったかという仮説を出しました。

古代の貴重な赤色はどうやって染めたのでしょうか。
その材料としては貝と茜があるのを思い出したのですが、ぱらさんが詳しく書いてくれました♪

「古事記上巻八千矛神の歌に出雲の大神が山畑に茜の種を蒔き染木の汁の染め衣を着ることをうたっております。また延喜式には日本茜の貢進は太宰府の大茜だそうですよ。

古代エジプトのミイラを巻く麻糸は藍や茜で染められていたとか。古代エジプト→ペルシャ→インド→中国と渡り日本へ来たのは秦氏と共に。おっとお話しが近くなりましたね〜〜(^-^)

茜の煮汁で染めて椿の灰汁や明礬や硫酸鉄を使用した媒染技術を伝えたこの頃から鮮やかな染物になったそうです。蘇芳やべに花も赤色ですよね。

茜をそのまま擦り付けて染める方法が古い技法ですが、単一染めでは黄色褐色のまさしく茜雲の色になるようで、それをタンニンを抜き色鮮やかに染める技術を持つってイノベーション。 秦氏凄いわー通婚しとかなきゃですよ。

出来た赤旗は神様に捧げたくも成りますっ!!随分と目立つ旗だった事でしょうね。」
るな
「紅のレポ、ありがとうございます。なるほどですね!
そういえば、八千矛神の茜のこと、染色家に尋ねた事思い出しました。太宰府の茜も三郡宝満山にあったはず。」


八千矛神すなわち大国主神はおしゃれな神らしく、家出(?)する時の服の色を何にしようか、と歌に読んでいて、その時に茜色の服の話が出て来たんですね。それで染色家に茜染めの話を尋ねた事を思い出しました。特に絹は染めやすいそうです。

そこで思い出したのが吉野ヶ里遺跡で出土したシルク。

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実験復元されたシルクの紫染めです。美しいですね。
有明海にはこの色に染めてくれる貝が自生しているとか。本当に宝の海だったんですね。(諫早の水門、早く開けてね。)





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こちら機織りの実演会場かな。
色がきれいです。草木染めは退色が速いから、色を定着させる技術を持つ古代豪族は他からも一目置かれたことでしょう。



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現代でも草木染めの色の定着は難しいそうで、中東辺りで赤色が褪めない特殊技術を日本人が学んでいるという番組がありました。その技術を秦氏が持っているとしたら、重要視されたことでしょう。


「紫」については貝を直接布にこすりつけている部族のビデオを見た事があります。布一枚を染めるためにはかなりの紫貝が必要です。クレオパトラが帆を紫か紅に染めさせたという話がありますが、これが財と権力の誇示だったのかよく分かります。

しかも、船の帆はシルクでないと物にならないとか。濡れても渇きやすいのが特徴で、綿や麻では使い物にならないと、昨日、ウラさんが教えてくれました。


そして、その日、マミさんが、筑後川の鵜飼の網もかつては絹だったと教えてくれました。

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シルクの需要は王族の衣装しか想像していなかったので、筑後川や遠賀川を走る小さな帆かけ舟の帆や漁具が絹で造られたと思うと、全く新しい古代像が生まれてきます。

筑後川には太宰府の直轄の連絡船があったのですから、それは間違いなく絹だったことでしょうね。


福津市の縫殿神社の集落で縫われた神功皇后の船の帆もシルクだった可能性が高くなりました。

秦氏。
秦氏一族(2万人?)が加羅に留まっていました。

神功皇后が新羅に勝ったお蔭で加羅と交流が始まったという縫殿神社の縁起とようやく繋がりました。
その後、竹内宿禰の子の葛城襲津彦が秦氏を迎えに行きます。

また、応神天皇が招聘した四人の縫い姫の一人が宗像大神の頼みで福津の奴山(ぬやま)に留まったのも、美しい衣装だけでなく、軍事的な需要があった可能性が出てきました。

そうすると、宗像大菩薩の振った旗もシルクだったかもね。





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by lunabura | 2015-12-16 08:53 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

脇巫女11 沖ノ島


脇巫女 11
WAKIMIKO 
沖ノ島


<八>2015年11月16日

沖ノ島を神聖な地としなくてはならない

イチキシマ姫のタタリを恐れ、その地に神殿を建てた

島に上がる前に裸で海に入り、何も隠していないことを示す

二度と命を狙わないと誓うために

◇◇ ◇
託宣は沖ノ島の歴史を語りだした。
それはイチキシマ姫のタタリに関わるものだという。
男たちが裸で海に入るのは、武器を持たたないことを示しているのだという。

二度と命を狙わない?
ということは、イチキシマ姫は命を狙われたというのか。
驚くべき内容だった。

沖ノ島を世界遺産に登録させようとしているが、
「お言わず」の島を何故、世界に伝えようとするのか、
私は理解できないでいる。

テレビがどんどん入って、沖ノ島は秘められた世界ではなくなった。

女神たちはそれを喜んでいるのだろうか。

しかし、もう時間がないのだろう。
姫神たちは隠されたものを出そうとしていた。
             (つづく)





沖ノ島








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by lunabura | 2015-11-25 20:52 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

脇巫女 9 夢物語

 

脇巫女 9
WAKIMIKO
夢物語


星読から預かった託宣や夢はすでに十六を数えた。
通し番号を漢数字で打つことにした。
今日は<四>から<六>までを連続して紹介しよう。

◇◇ ◇
<四> 2015年11月9日
早朝4時45分頃、まどろんでいる時、
若者が懐に飛び込んでくるような勢いで顔がアップになって目が覚めた。
深呼吸を一回したが、気分は落ち着いていた。

◇◇ ◇

懐に飛び込んで来た若者は誰か。
尋ねると、ヤマトタケルだったという。

ヤマトタケルが誰かを殺した時のようだと星読は言った。
驚いて目が覚めた星読だが、感情が乱れることはなかったという。

ヤマトタケルは気性が荒かったらしい。
彼に殺された人を思い起こすと、兄の大碓命、クマソタケル、出雲建などがいる。

星読はこれから解かねばならない謎の重要なシーンを見せられたのだろう。
答えは一つ動けば一つ教えられるのだろう。

◇◇ ◇
<五>2015年11月11日
これからの物語は作者(星読)の「夢物語」

「夢」は未来のためにだけあるものではない

過去を夢見て、そのあるべき姿を知る

今を生きる者たちのために

まだ見ぬ者たちのために

◇◇ ◇
星読の託宣に対して、私は歴史的背景を考察しているが、
この先は驚くべき内容が展開される。

これまでの歴史観に反するものも出てくるだろう。
が、感情が揺さぶられた時には「夢物語」だと受け流そう。

「感情」に「浸る」ことをやめて「感情」を「観察する」ことが
人類の意識の進化に欠かせない。
これを読んで私はそう思った。

◇◇ ◇
<六>2015年11月13日
一人の男が、宇佐神宮の祭殿の前でひれ伏し、
「お迎えに参りました」
「長いことお待たせいたしました」
とつぶやくと
光(風のようなもの)が「われ先に戻る」と告げる

男は「入口と窓を開き、出迎えるよう」(自宅に)告げる

男が(自宅に)戻ると、神棚が騒がしい。

男は山に行く

この地に戻りし神々よ この地を守りし神々よ
この地を守りし われに力を与えよ
この地を奪われないために
◇◇ ◇
「男」とは星読自身のことだという。
星読は宇佐神宮に祀られている三女神を迎えにいった。
女神たちは星読より先に鞍手に戻るので、星読は自宅に連絡して
入口と窓を開けて神々を迎え入れるようにと告げた。

戻ると、自宅の神棚が騒がしかった。

それから、星読は山に行った。
この山とは六ケ岳だそうだ。

そして、星読は戻って来た女神たちに
「力を与えよ。この地を奪われぬために」
と祈ったという。

現在なのか、未来なのかは分からない。

「もののべ」によって鞍手を追われた「星読みの民」は
三女神と共に宇佐に行ったという話が出たが、
星読はその女神たちを六ケ岳に迎える役目があるのだろう。

フラッシュバックのように重要なポイントが示されているようだった。

※ ※  ※

チェリーさんが六ケ岳の祭祀線の記事を投稿してくれた。

「地図でつなぐ聖地の旅」 lunaさんへのレポート 
「鞍手」 その1
 http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/blog-entry-117.html 

六ケ岳は麓からは、六つのピークがきれいに並んだ連山に見えるのだが、
チェリーさんの作成してくれた地図を見ると、
六つのピークを結んだ稜線は馬蹄形になっていて谷を囲んでいた。
想像外の形状だった。

その谷の麓に卍マークがあるが、その寺の名前が分からないそうだ。
馬蹄形の焦点にあるような位置取りで気になった。

私も手元の地図や山の本を調べたが書かれていない。
廃寺となっていれば調査ははかどらないかもしれないが、
六ケ岳信仰の要かもしれない。

七色に調査の依頼メールを送ると、早速、探索に行ったとメールが入った。
七色は鉄砲玉か… ”(-“”-)”

気軽に尋ねたのがこのような展開になると、当方が恐縮する。
星読も同行していた。
場所が分からないようなので、改めてチェリーさんの地図を見ると、
砂防ダムの上流150mほどの位置になる。

これはもう土砂の中に埋もれているだろう。
いかにも山津波が起こりそうな地形だ。
砂防ダムの受け皿は大丈夫だろうか。

久山の伊野天照皇大神宮の上の砂防ダムのようすが心に浮かんだ。
すでに土砂はダムを乗り越え始めていた。
大雨が降れば、神殿に掛かるのではないかと恐れている。
あれから対策はされているだろうか。

七色が夜になって電話をくれたが、
鞍手のハザードマップが緊急に必要だと言う。
昭和33年にこの地は災害に見舞われてたそうだ。
地形的には海からの津波が上がれば波高が高くなる所だし、
上流域に大雨が降れば流されるような地形だ。

七色にはその警告の声が聞こえているのかもしれない。


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これは、tatsuさんが作ってくれていた10mの洪水マップだ。
弥生早期の想定地図に当たるが、本来、洪水を調べるのためのソフトだ。
国土地理院のHPの中にもあったはずだから、活用してほしい。


星読の最後の言葉が気になる。

<この地に戻りし神々よ この地を守りし神々よ
この地を守りし われに力を与えよ
この地を奪われないために>


「この地を奪われ」る状況が想像つかなかったが、
あるいは鉄砲水、山津波などの自然災害の可能性もある。




さて、話が変わるが、チェリーさんのブログには
六ケ岳―六嶽神社―宗像大社のラインも描かれていた。

問題は宗像大社の位置だ。
市の発行した本によると、
宗像大社の辺津宮の社殿があった時期は788年までしか遡れていないのだ。
それまでは辺津宮は無かったと考えるのが妥当だ。

不二さんの話によると、昭和に「古高宮」に初めて登った時は木が生えてなく
海が見渡せ、祭神は大国主命だと聞いたという。
宗像族の祖は出雲系なので、当然だと思う。

また、今の「高宮祭場」は「昭和」に作られたものだ。
発掘した時、土器が少し出たので祭祀があっただろうという事で、
現在のように整地して神籬(ひもろぎ)が作られた。

露天祭祀を継承したすばらしいデザインで、神も降りてこられる所だが、
古代祭祀線を考える時には除外したほうが安全かもしれない。
六嶽神社の参道とラインがずれるのは時代が違うためだろう。

高宮祭場の参道を延長したらピークがある。
氏八幡神社の参道を延長するとそのピークと交わる。
そこが「古高宮」だ。
そこが最初の祭祀点ではないかと思われる。

以上、地元の情報をここに記しておこう。
チェリーさんの参考になればと思う。

マップの赤が古高宮(祭神大国主命)青が高宮祭場(昭和のもの)





              (つづく)


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by lunabura | 2015-11-23 21:05 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(92)
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